月世界旅行

 喧しいクリスマスのイルミネーションと、着込んだダウンコートを貫通する突き刺すような寒さは、毎年セットでやって来る。十二月の浮かれた喧騒を満載した夜道を歩きながら、隣でレンが口ずさんでいる曲は「Fly Me to the Moon」。今年は俺の勤める会社のクリスマス・パーティーがないと聞いてから、こいつの機嫌は極端に良くて、今日も意味なく帰宅する俺をメトロの改札で待ち構えていた。
「何しに来たんだよ」
「一緒に帰ろうと思って」
 アパートまでは改札から直通の地下道を通って10分と掛からない。だから、わざわざ地上に出てスーパーで要りもしないシリアルや何やらを物色して帰るのは、帰るというより寄り道になる。こいつに合わせてるだけで、昔だったら絶対にやらない帰り方だった。だって非効率だし。
「お前、その歌好きな」
 レンは本当にこの歌をよく歌った。特にこんなよく晴れた、月のあかるい夜道では。
「初めて会ったとき、アーミがアパート連れてってくれる道々歌ってたんだよ」
 レンが振り返りながら、お決まりの答えを返す。いかにも寒そうにデカい図体を縮こめながら、両手をパーカーの前ポケットに突っ込んでいる。短い距離だからって裏起毛ってだけの綿パーカーなんか着てくるからだ。吐く息は真っ白で、鼻の頭が赤い。脳内で、奴の頭にトナカイの角を生やしてみる。似合う。去年やってた謎のサンタコスプレなんかよりよっぽど似合う。
「何度も言うけど、覚えてねえわ」
「それ本当なの? 恥ずかしいとかじゃなくて?」
 本気で訝しがるレンだが、俺も本気で覚えていない。酔ってたし。
「覚えてるのは、お前がバーで人の分までナッツぼりぼり食いながらXファイルの話延々としてたことだな」
「そこはもう忘れてよ!他に何話せばいいかわかんなかったって言ってるじゃん」
 初対面で互いに名乗りあわないうちから「貴方がとても綺麗で」とか言う爆弾をかましたくせに、その後こいつが口にしたのはXファイルと事件記者コルチャックの話題だけだった。
「こんな面白い話、忘れられるかよ」
 けらけら笑うと、レンはむうっとむくれた顔をしながら、歩くスピードを落として俺の隣に並んだ。ポケットから左手を出して、当たり前みたいに俺の空いてる右手を握る。革の手袋越しにも、彼の高い体温は伝わった。
 なんであんなコミュニケーション不全のオタクを拾ってアパートまで連れ帰る気になったのか、今となっては曖昧だ。顔が好みすぎた。久しぶりに絶対にヤりたいと思うくらい良い体をしてた。とにかく性欲を刺激された。それだけってことにしてあるが、微細に思い出せば違う何かがあったような気もするし、それはただのセンチメンタルな捏造の気もする。
 大切なのは、滅多に自分のアパートに他人を入れない俺がレンを連れて帰ったという事実であり、にも関わらずことに及ぼうとしたら拒否られたので部屋から叩き出し、次の日出勤しようとしたらそいつがドアの前で目を回して伸びていたという事実だ。
「アーミ、あのときやけに親切だったよね。あり得ないくらい」
「……」
 なにげないレンのつぶやきが突き刺さり、俺は思わず口を閉じる。
 本来の俺なら、あの朝彼にいくばくかの金でも渡しただけで、縁を切っていただろう。しかし何故だか、俺はレンを引き受けた。食事を与え、部屋に住まわせることのみならず、奴の抱える問題に逐一アドバイスし、あまつさえ交渉の代行すらしてやった。
「あれは、まあ、俺のためにやったことだから」
 あまり深刻に聞こえないように、軽く答えるつもりが、ズバリ核心をついてしまって少し慌てる。レンも妙な顔をしてこっちを見た。
 そうなのだ。レンに親切にすることで、俺は何かに復讐していた。俺が助け船を出すたび、レンは呆気に取られていた。そのぽかんとした顔を見ながら、ザマアミロと思っていた。あの頃はレンに対して言っているつもりだったが、違う。
 俺は、俺に対してザマアミロと勝ち誇っていたのだ。要するにレンを助けることは、俺に雑に扱われた俺の、俺に対する復讐だった。
 今ならわかる。
 黙り込んでしまった俺を何か言いたげに見詰めていたレンは、やがて何も言わずに前を向いた。
 しばらく、二人して無言でただ歩く。
 レンがズッと鼻を啜る。俺の先のとんがった革靴が、アスファルトをコッコッと叩く。レンのノーブランドのスニーカーは、音を立てない。
 いつの間にか路地に入り、人混みの喧騒も、浮かれたイルミネーションも遠くに消えていた。
「俺ねえ」
 不意にレンが言う。隣を見ると、奴の鼻の頭は更に赤くなっていた。やっぱりトナカイだ。
「あの日、歌うアーミ見てて、思ったんだよね」
 レンは俺を見て、んふふ、と笑った。
「この人のこと、月に連れてってあげたいなあって」
「え」
 何だそれ、という間もなく、レンはチュッと音を立てて小さくキスをかまし、すぐに顔を離した。また、ふふ、と笑う。
「……んだよ、いきなり」
「はい、おうち到着。──フィリップ、ただいま」
 最後のは、アパートのドアマンに向けた言葉だ。今のキス、絶対見られてたよな、と思うが、今では大して気にならない。
「お帰りなさい。今日は冷えますね」
 ねえ、寒いですよねえ、とにこやかに挨拶するレンを見て、ドアマンの存在じたいを怖がって半ベソをかいていた昔の彼を思い出す。ずいぶん成長したなと上から目線で思う。
 俺も適当に挨拶を流しながら、アパートのドアの外をちらりと見遣る。
相変わらず、月のあかるい綺麗な夜だった。