ナイトクローラーの朝食

 タクシーを降りると、霧雨がぱらついていた。
 ハックスは真夜中の空を見上げた。当然のように真っ暗で星一つない。
 通りの向かい、自分たちの住むアパートメントのエントランスに目を移す。
 そして、おもむろに煙草に火を付ける。濡れるのも厭わず、通りの壁にもたれ掛かり、煙を燻らせる。
 ほぼ霧と言っても差し支えないほどの細かな雨が、じっとりと肌を、髪を、湿らせていく。寒いような、それでいて熱っぽいような体温に身を投げ出す。一瞬肌が粟立つが、すぐに全身の毛穴から熱が一気に解き放たれていくのがわかった。
 大きく息を吸い込む。煙と共に湿気が肺に侵入するが、不快ではない。
むしろ、澱のように溜まった感情が夜に溶けていくような気がした。

§

 金曜の夜。
 地獄だった。
 午前は新クライアントへのヒアリング、午後は緊急会議で潰され、挙げ句の果てに他人のプロジェクトの尻拭いを回された。
 信用されている証ではあろうが、引き取ったチームメンバーはどういうマネジメントをしたらこんな面子になるんだと頭を抱えたくなるような編成で、実質ハックスが引き取るしかないような雰囲気を早くも漂わせていた。上がってきた資料をチェックし、案の定の使えなさに苛々していると、あっという間に十八時を回る。
 プロジェクト成功記念の食事会をすることになっていた。
 明日も出勤する覚悟を決め、片付かないデスクをそのままに放り出し、部下たちを引き連れ店に向かう。
 部下のリクエストで話題のステーキハウスを予約したが、ハックス自身は肉が好きではない。一人一人をねぎらい、さりげなく失敗をフォローし、普段は食べないようなサイズのステーキを無理に飲み下し、好みではないビールを何杯も飲む。週末で賑わう店内の騒音と人いきれに目を回しながら、ただ社会性があるとアピールするだけのような会話を止めどなく繰り出し、頬の筋肉が痙攣するほどに笑みを浮かべ続けた。

 ようやくお開きとなった時点では、十二時前だった。
 満面の笑みで帰途につく部下たちを見送る。
 春が近いとは言え、まだ少し肌寒い。
 夕方頃までは晴れていたはずの空模様も怪しくなっている。
 身体が泥のように重い。
 呼吸がしづらい。
 なにかが限界を超えようとしている。
 さっさと帰って、今夜は薬を飲んで寝てしまおう。そう思いながら自身も地下鉄へ足を向けようとした、その時。
「あの……」
 聞いたことのある声がして、振り向くと部下の一人が佇んでいた。
 どうした、帰らないのか、と言いかけて彼女の目を見、ハックスはすぐに了解する。
 彼の所属する監査法人のなかでも、現在の部署は残念ながら公私の混同が激しいことで有名である。社内恋愛、不倫のゴシップは興味のあるなしに関わらず、日々の業務に必要不可欠なニュースとして常に流れてくるほどに。
 そんな劣悪な環境のせいで、配属された者は二ヶ月も経たない間に二種類の派閥に別れることを余儀なくされる。即ち、自らその渦中に飛び込み謳歌する者と、決して関わらないように目を背ける者に。
 ハックス自身は後者だが、今目の前にいる彼女──ハックスの記憶が正しければ、まだ配属されて数週間の新人──は、既に己の立ち位置を前者と決めこんでいるようだった。
 やれやれ、とハックスは心中で呆れ気味に笑う。
 今日はとことん俺の”社会性”が試される日なのか。
 そんなに俺が信用ならないか。正気のフリがまだ必要か。クソが。
 悪態が次から次へと脳内を駆け巡る。
 まずいぞ。お前、おかしくなりかけてるんじゃないか。
 心のどこかでもう一人の自分が警告を発するが、ブレーキが利かない。
目の裏に明滅する赤信号を必死に頭の片隅に追いやりながら、むりやりに笑顔を取り繕ってにこやかに応える。
「ああ、君か。どうした?」
 さっさとお引き取り願おうと口を開きかけた瞬間、不意に携帯電話が震えた。
 画面の表示を見るまでもなくレンだと悟り、思わず舌打ちする。
 ──少しは放っておいてくれ!
「あの、アーミテイジ?」
 ハックスの変化を敏感に感じ取った部下が、遠慮がちに問いかける。彼女の中で素早く計算機の動く音が聞こえた。ハックスにも馴染みの音が。
 咄嗟に、舌の上に転がっていた「早く帰りたまえ」という言葉を呑み込む。なぜそんなことを言っているのかわからないまま、ハックスは笑顔で応えていた。
「それで、私に何か用か?」
 勿論答えは知っていた。
 具合が悪いんだろう?
「いえ、少し具合が悪くなって休んでいたら、あなたを見かけて」
 ほら、見ろ。
 嘘と見破られることを願った嘘。微妙なニュアンスの乗る声音。そして、追い詰められたときには嘘じゃなかったと言い張るためのアリバイとしての単語選び。
 なんて素晴らしい。
 ハックスは喝采を送る。茶番もここに極まれり、だ。
「そうか」
 涼しい顔をして気付かないふりをする。礼儀として、そして駆け引きの余裕遊びとして。
 ──ああ、まずいぞ。
 著しく調子の外れた思考が主導権を握り、アクセルをべったり踏んでいるのを感じ取る。曲がりきれないカーブにさしかかっている。そして、俺はどこかで、そのまま大破したいと願っている。
「家まで送ろう」
 その言葉に、彼女が艶然と微笑んだ。
 ──何を考えてるんだ。早く帰れ。レンが心配してるぞ。
 自責の念すら白々しく聞こえるほどに、ハックスは自暴自棄になっている。
 ああ、うるさい。
 考えたくない。
 知りたくない。
 どうでもいい。
 わざとらしく撓垂れかかるやわらかい身体を支え、タクシーに乗り込みながら、ハックスは疲労が毒のように全身に回るのを感じた。

§

 いつのまにか濡れそぼった鼻先から、小さな滴がぽたり、と伝い、煙草の火が消えかけていることに気付く。気がつけば一本を吸いきろうとしていた。
 午前三時を過ぎた通りは、さすがに車どころか人っ子一人通らない。
 深夜営業のシアターの入り口だけが、幻のように煌煌と明るかった。
 今日、あの灯りの向こうでは、どんな映画たちが上映されたのだろうか。
 スクリーンに投影された光と影が映す嘘。
 嘘はもう、たくさんだ。

§

 結局、部下はそのまま帰した。
 傷ついたような安堵したような、複雑な表情の彼女をタクシーから降ろし、朴念仁を演じきる。
 普段の彼の軽薄な態度からすれば、無理のある配役だ。それは承知だ。
 しかし正直なところ、さりげなさを装ってあからさまに誘惑してくる女の肉体に、何の感慨も湧かなかったのだ。それどころか、余計に満たしようのない渇きを覚えただけだった。
 ──俺の消耗に、無関係な他人まで巻き込んでどうする。
 すんでのところで正気に返り、踏みとどまった。
 ついさっきまで、茶番を演じやがってなどと穿った見方をしていた自分を恥じもする。
 もし、純粋な好意だったら、どうするつもりなんだ、お前。
 ──どうかしている。
 彼女の顔をはっきりと思い出すことさえできない自分に気づき、自己嫌悪に頭痛がした。

 頭を冷やしたくて、見知らぬ街をひたすら歩いた。
 危険だなどと考えもせず、暗い道、暗い道を選んで、足元だけを見て、ひたすら早足で彷徨う。
 幸いなことに、接触してくる人間は一人もいなかった。
 もしかしたら、ぶつぶつと独り言を呟いていたのかも知れない。
 何も覚えていない。
 ただ、歩いた。
 暗い街を。

 我に返った時には、午前二時をとうに過ぎていた。
 帰りのタクシーをどうにかして捕まえる。運転手は、まだ若い白人の男だった。行き先を告げるなり、
「へえ、良い所住んでますね」
と、いやに卑屈な目で話しかけて来る。
「すまない、気分が悪いんだ」
 そう答えて目を逸らすと、バックミラーから粘っこい視線がまとわりつくのを無視して窓の外を眺めた。
 自分のコートから、先程の部下の香水が臭った。媚びて甘ったるいフローラルの香りに、ステーキや自分の薄くなった香水が混じり、胸が悪くなる。
 無性に煙草が吸いたくなったが、車内だ。苛々と膝を揺らす。
 ──さっきまで、お前は何を考えていた?
 ああ、また馴染みのアレが始まった。
 俺を糾弾する、もう一人の俺だ。
 今日あの女と寝てしまえば、今夜は家に帰らなくて済む。
 レンに会わなくて済む。
 レンの顔を、何も言わずに寂しそうに微笑む、あの優しい顔を目にせずに済む。
 言い訳をする必要も、そもそも言葉を紡ぐ必要もない。
 ──お前、そう考えただろう?
 ああ、ああ。
 そのとおり。
 俺はクズだ。お前が正しい。
 ──そうだ、お前はクズだ。
 ──レンに相応しくない。
 自分の執拗な追及から逃れたくて、身体を丸める。
 両手で耳を塞ぐ。
 傍から見たら気ちがいのようだろうな、とぼんやり考える。
 タクシーの窓に視線を投げれば、闇に浮かんだ色とりどりの光が高速で流れていく。その光の濁流に、目の下に隈をつくりげっそりと頬のこけた己の顔が浮かぶ。
 もう何日も、レンと口を利いていなかった。ろくに顔すら見ていない。

 レンが最近、何かを抱えていることは承知していた。
 おそらくは、彼の過去が絡んでいることも。ハックスにそれを知られるのを恐れていることも。だから、無理に聞き出すことはすまいと決めた。彼が話したくなるまで待とうと。
 しかし、それは今思えば言い訳だったのかも知れない。何故なら、いざレンが何か言いたげな目をしたとき、ハックスは、気付かないふりをしたのだから。
 怖かったのだ。
 もし、受けとめきれなかったら。
 あるいは、別れを告げられたら。
 俺はレンを愛している。彼にそう告げたことすらある。自分でもそうだと信じてきた。けれど、レンを失うかもしれないと想像しただけで、圧倒的な恐怖のどん底にたたき落とされた。彼を知った今、彼の居ない孤独になど耐えられない。そんな地獄を見るくらいなら、彼の意志などねじ曲げてでも、永遠に自分と鎖で繋いでしまいたかった。
 ハックスは、己の醜い本音に打ちのめされた。
 にも関わらず、俺を置いていかないでくれと泣いて喚いて縋るだけの度胸すら、彼にはなかった。その弱さに、更に絶望した。
 ──そうだ、お前はクズだ。
 ──レンに相応しくない。
 呪いのような言葉だけが、ひたすら胸の裡をぐるぐると駆け巡る。
 全身を倦怠感に支配され、このまま、タクシーのシートから永遠に動けないような気がした。

§

 霧雨を浴び続けたせいで、伸びた無精髭はじっとりと湿り、全身が冷え切っていた。
 水分を含んで重くなったトレンチ・コートの袖口の匂いをそっと嗅ぐ。あれほど騒がしかった匂い達は、幽かな痕跡だけを残し、ほぼ消え去っていた。
 指を焦がすほど短くなった煙草を、名残惜しげに一口吸うと、吸い殻をわざと道端に捨てる。いまいちど、目の前のアパートメントに目を遣る。ずらりと並んだ窓はどれも真っ暗で、どこが自分達の部屋かはわからなかった。
 そのまま、ハックスはエントランスにまっすぐ向かった。

§

 音を立てないよう玄関ドアを閉める。
 暗いダイニングテーブルには、ノートがぽつりと置かれていた。
 二人の連絡帳だ。
 同棲を始めるとき、生活時間がすれ違うとわかりきっている二人の会話にしよう、とレンがわざわざ買ってきたものだった。チャットか、せめてホワイトボードじゃ駄目なのかと渋い顔をするハックスに、モノとして残る紙じゃなきゃイヤだとレンは譲らなかった。
 ぼろぼろになった表紙を繰り、特に新しい連絡がないことを確認してから、頁が破り取られていることに気づく。枚数にして二枚、というところだろうか。長文だ。
 つまり、何か伝えたいことがあったのに、言葉にならなかったのだろう。頁を破った痕跡を必死に隠そうと画策した形跡を認め、ハックスは苦笑する。
 パラパラと頁をめくる。
 すべてが、今日は帰れないだの明日は起こすなだの、あるいはシャンプーが切れたのゲーム機が壊れたのと、他愛ない内容ばかりだ(「こんど俺のドクペ飲んだらお前のアイス全部流しに捨てるからな!本気だぞ!」)。なかにはミートソースが飛び散った痕や、珈琲をこぼしてごわごわになったページもある。
 ああ、これはあの時喧嘩したからだ、こっちは俺が酔ってて溢したんだっけ。レンが激怒したな。
 分厚いノートの四分の三はすでに埋まっていた。
 次々とページをめくるうち、ハックスは二人で暮らした時間の、思いがけない長さに虚を衝かれる。
 不意に目頭が熱くなり、ハックスは慌てて上を向いた。
 ──レンの顔が見たい。
 会いたくないと思っていたことが嘘のように、心底そう思う自分がいた。
 逸る気持ちを抑えながら、寝室に急ぐ。
 レンはベッドの中央で一人、大の字になって眠っていた。規則正しい呼吸に胸が上下している。端正な顔立ちとは不釣り合いな、謎の宇宙人のイラストが描かれたTシャツとグレーのスエットという間抜けな格好に、笑みがこぼれる。
 ──一人だと、ダブルベッドは広いんだな。
 ベッドの端に腰掛け、ぼんやりそんなことを思う。
 時刻は五時になろうとしていた。
 家を出るのは八時。
 今から薬を飲めば、絶対に起きられない。
 最近は、アパートメント内に併設された屋内プールにも行っていない。こんなにだるいのは、ジムにも行かず身体を動かしていないせいもあるのだろう。
 プールに行き、シャワーを浴び、そのまま出勤するか。
 シャワーを浴び、眠れずともレンの横で目を閉じるか。
 ハックスはしばらくレンの寝顔を眺め、ベッドから立ち上がった。

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