ナイトクローラーの朝食 reprise

「いただきます!」
 げんきよくそう言って口に入れたとたん、甘いバニラの香りにまじった焦げ臭い匂いと苦み、どろりとした生焼けの生地と粉っぽさの同居した舌ざわりがレンを襲った。
「ヴッ」
 反射的に吐き出しそうになるのを必死にこらえ、レンはむりやりひとくち分のパンケーキを呑みくだす。目尻に涙が浮いた。
「大事なのは、彼の気持ちだ。食える、食えるぞ」
 自己暗示で己を鼓舞しつつ、もうひときれ切る。焼きものとは思えないみずみずしい断面が目に入り、クラリとくる。しかしこらえて口に運ぶ。
「ヴァッ」
 焦げ臭い。しかし、生(なま)。
 口もとを手で抑えて、根性で飲みこむ。そして結論を下した。
「無理だ」
 このままの状態で食べるのは、自殺行為だ。
「ごめん、アーミ」
 レンは通勤中のハックスに謝罪すると、皿にラップをかけ、思い切って電子レンジに放り込んだ。

  電子レンジが火を通してくれるのを待つあいだ、何が起きているのか調査すべく、レンはキッチンに足を踏み入れた。ついでにコーヒーメーカーのスイッチを入れる。濃さのメモリを「濃いめ」に合わせることも忘れなかった。
 まず、几帳面に開封されたパンケーキミックスの箱を手に取る。ハックスの同僚が、日本に出張にいったときのお土産でくれたものだった。向こうではごく一般的に市販されている製品らしいが、一回分が袋わけされいているので計量する手間がない。甘さも控えめで、レンは好きだった。
 箱を裏返すと、ご丁寧に作り方がイラスト入りで解説されている。日本語は読めないが、この製品であればハックスにも簡単に作れるはずなのに。
 液状の生地がまだたっぷり残されたボウルは、表面上はふつうに見えた。
 レンは首をひねりながら、突き刺さったままのおたまを一さじすくった。
 たったひと掻きで、混ざりきっていない粉、卵の黄身、分離した白身が現れた。
「なるほど」
 ふかく納得する。
 無造作に放り出された泡立て器を手に取り、レンは黙って生地を攪拌しはじめた。そして、すぐに水分量がおかしいことに気づく。
「牛乳、多くない……?」
 おそらく、生地がきちんとまざらないことがふしぎだったのだろう。
 ──あれ?量まちがえたか?
 そうつぶやきながら、何も考えずに大量の牛乳をつぎ足していった恋人の姿が、手に取るように思い浮かぶ。
「で、粉がみえなくなった時点で、混ざった、と思ったんだろうな……」
 つぎにフライパンに目をやる。なんどか買ったばかりのテフロン加工のものをダメにされた記憶が甦り(いまだにどうやったのかよく解らない)、レンは思わず薄目になった。
 が、フライパンは無事だった。きれいにテカテカ光っている。いや、光りすぎている。
 嫌な予感がして怖々のぞきこむと、
「ぐッ」
 こらえきれない声が漏れる。
「お、オリーブオイルを、こんなに」
 ちょっとそれは多すぎじゃないかなあ、という量の油が目に入り、レンの涙目がひどくなった。油を“敷く”という概念を、ヤツが理解できるわけがなかったのだ。そのことを痛烈に思い知らされる。
混ざりきっていない生地を、大量の油の中に投入し、おそらくは強火でむりやり表面だけを焼いたのだ。
 脱力し、レンはその場に座り込んだ。
 嵐がとおり抜けたのかと思うほど荒れているキッチンを見わたす。
几帳面な彼のことだ、出勤の時刻が刻々と迫るなか、荒れていくキッチンを見ながら(いや荒らしたのは彼なのだが)、途方に暮れていたことだろう。
 にも関わらず、とりあえず一枚だけはと、レンのために焼いてくれたのだ。
「がんばったね、アーミ」
 さっきとは違う意味で涙目になるレンの耳に、電子レンジのピーッとけたたましい音が届いた。
 彼はゆっくり立ち上がると、冷蔵庫からジャムを取り出し、コーヒーメーカーからを珈琲をついだ。

  レンジから出した真っ黒な物体は、ほかほかと湯気をたてていた。
 焦げた表面に、いちごジャムを大量に塗りつける。それが、甘いものに目がない恋人がよくやる食べ方にそっくりなことに気づき、ふふっと笑う。
 苦闘の痕跡を見たあとでは、なんだか食べてしまうのがもったいないような気がした。でも腹は空いている。
「さて」
 気を取り直す。
「今度こそ本当に、いただきます」
 レンは静かに、黙々と食べ始めた。

 火をとおしたジャムだらけの黒こげパンケーキは、今まで食べたどんなパンケーキより甘く、そして、美味しかった。

 ということに、しておいてほしい。