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土曜の朝。
覚醒し、レンは落胆した。
目を開かずとも、この肌寒さで分かる。ベッドの上にはまた自分一人だ。
彼は帰って来なかったのだろう。あるいは一度戻り、声もかけずに既に出勤したか。
どちらにせよここ数日、彼の顔をろくに見ていないことは確かだ。
わがままを言うつもりはない。彼の仕事は激務だ。最初からわかっていたことだ。
部屋の片隅に隠すように置かれた封筒に目を遣る。
実家の母からの、”先生”の十二回忌を知らせる手紙だった。
とうとう居場所がバレたのだ。
元より先生を偲ぶ会になど、レンが出席できるわけなどない。手紙の内容は問題ではなく、これはお前が何をして、今どこで誰といるか、すべてを知っているぞという警告なのだ。
印刷された文面の下部に手書きで書かれた「ルームメイトの方も一緒にぜひ」という一文が全てを物語っている。
ハックスの過去を、レンも詳しく知っているわけではない。
ただ、彼の家の事情が相当に複雑であること、彼の故郷での評判は最悪であることだけは、なんとなく聞いていた。
きっとあの人はこう思っているはずだ。
どこの馬の骨だか知らないが、我が家には相応しくない、と。もっと「まとも」で「善い」人を見つけろ、と。
吐き気がした。
時間がなかった。
もし今打ち明けなければ、恐らく最悪の形、最悪のタイミングでレンの過去はハックスにバラされるだろう。もっともらしい理屈をつけて、レンを実家に返せ、お前は身を引けと迫るはずだ。そして、ハックスは必ず従うことになる。
彼はあれで、とても脆いところがある。間違いなく母はそこを突く。どうやるかなどは知らない。知りたくもない。しかし、最愛の人は、「レンのために」レンの前から姿を消すだろう。永遠に、跡形もなく。
母は、いつだってそうやって、他人を思い通りにして人生を切り開いてきた。
今回も、そうなるに決まっていた。
それでなくとも今のハックスには、余裕などないのに。仕事に追い込まれ、日々消耗しているのが手に取るようにわかる。レンとの接触も避けている。疲れているのだ。
そんな彼に、なぜ今、こんな話をしなければならないのか。
それこそ俺のエゴじゃないか。
今さえ過ぎれば。
今でなければ。
あまりのタイミングの悪さに唇を噛む。しかし、嫌われるかもなどと尻込みし、自分の過去と向かい合うことを避け、隠し続けた罰だ。過去に追いつかれてしまったのだ。
堂々巡りする思考に苛まれながら身を起こす。
§
違和感を覚えたのは、枕元の携帯に手を伸ばした時だった。画面はまだ6時すぎを表示している。つまりアラームは鳴っていない。
朝に弱いレンは、アラームが鳴らなければまず起きない。
なのに何故、俺は目を覚ましたのだろう。
居間の方から物音がした。
──もしかしてアーミ?
途端に心臓が跳ね上がり、鼓動が早くなる。
せめて顔を見たい一心で慌ててベッドから跳ね起き、寝室のドアを飛び出した。
キッチンの方から良い匂いが漂ってきた。
「アーミ?!」
キッチンに駆け込みながら、大声で彼の名を呼ばわる。
なんだか俺、必死だな、とちらりと思う。
「ああ、起きたか。起こそうかと思ってたんだ」
対面式のキッチンには、見慣れた赤毛が揺れていた。平日と違って髪がセットされていないが、休日出勤のときしか着ない「カジュアル」なシャツを着ている。
やっぱり仕事に行くのか、と思ったのも束の間、意外なものを目にしたレンはぽかんと口を開けた。
彼は、料理をしていた。
「借りたぞ」
何を、と尋ねようとしてさらに仰天する。レンの黒いソムリエ・エプロンを、ハックスが着けていた。
「お前より似合うと思わないか?」
つい、あ、うん、と頷き、それから慌てて首を振る。
「な、何してるの?いつ帰ってきたの?仕事は?」
立て続けに流れ出したレンの質問に、彼は指を立ててカウントしながら答える。
「朝飯を作ってる。明け方の五時頃に帰ってきた。仕事は最悪、今日も出勤。ちなみに朝飯はパンケーキだ、泣いて喜べ」
「パンケーキ?!焼けたの?怪我は?フライパンは無事?」
「失敬な。俺だって三回も失敗すれば、パンケーキくらい焼けるようになる」
憮然とした表情のハックスの顎には徹夜の証のように、まばらに髭が生えていた。目の下の隈もすごい。
彼がパンケーキを炭化させた事故は三回じゃ利かないし、その度に火傷して大騒ぎしている。が、この際はどうでもいい。
何も言えずに目を白黒させるばかりのレンに、ハックスは事もなげに告げる。
「お前の分だけ焼いたから、食え」
「アーミは?」
「俺はいらん。ゆうべ付き合いで食ったステーキのせいでいまだに目が霞んでる」
アーミがステーキ?!
朝から衝撃的な言葉ばかり続く。
良く見れば、確かに顔色がどす黒い。仕事なのだろうが、そこまでやる必要があるんだろうか。
──あるんだろうな、アーミにとっては。
「見てのとおり寝てないから、お前が食うところを見たら出勤する」
「……なんか接続詞おかしくない?」
「そうか?正直なところ、俺も何を言ってるんだかわからん」
顎をこするように手をやりながら、ハックスはそう言って、フライパンから不器用にパンケーキを皿に移した。
形はアダムスキー型UFOのように歪で、しかも焦茶というには少し、いや、かなり黒ずんでいる。が、それでも今までに比べれば、確かにこれは食用のパンケーキだ。いいにおいもする。
「おいしそうだね」
素直にそう言うと、ハックスはふふんと得意げに鼻の穴を膨らませた。
その表情に、なぜか急にレンは泣きそうになる。
「アーミテイジ」
思いがけず切羽詰まった声で呼び掛けてしまい、レンは慌てて鼻を擦った。
「あの、あのね」
ハックスがこちらを見た。鼓動が早鐘のように鳴る。
──今、言っていいのか?これからまた仕事に行く彼に?
峻巡しながら、恐る恐るハックスの目を見る。
彼も、レンを見ていた。
まっすぐに。その目を見た瞬間、すっと心が穏やかになった。
──大丈夫だ。
そんな不思議な確信が生まれた。
息を吸い込み、意を決して言葉を繋ぐ。
「話したいことが、あるんだ。今じゃなくていい。忙しいのは知ってる。でも、少しだけ、時間を作ってほしい」
声が震えた。
「俺の、ために」
言い終わるのと同時に、言いようのない不安に全身を貫かれる。
「俺のため」?何をバカな。
なぜ、大丈夫だなんて思ったんだ。こんなこと、俺に言う資格はない。
痛烈な後悔の波に呑まれ、現実感が遠のいていく。ああ、俺はまた捨てられる。レンは確信する。また一人になる。だって俺は、誰かを不幸にすることで生きながらえるバケモノだから。恐怖に竦む足元が、バラバラに解体されていく。二人で過ごした日々が、ゆっくりと遠ざかっていく。扉が閉まる。そう。これで終わり。最愛の人は顔を背け、歩み去るだろう。もっと相応しい人のもとに。
──そして取り残されるのは、いつだって俺だ。
耐えきれず、レンはぎゅっときつく瞼を閉じた。
目を開けば、きっと次の瞬間、俺はあの家にいるに違いない。あのだだっ広い牢獄に。どこにも行けはしない。俺に愛される資格はない。
死んだ目をしたもう一人の俺が、ニヤニヤしながら号令を発する。
総員退避。馴染みの衝撃に備えろ。
しかし、どんなに待っても、舌打ちも、溜息のひとつも聞こえてはこなかった。
代わりに、穏やかにハックスがこう言うのが聞こえた。
「そうか。わかった」
驚いて目を開ける。
「え」
──いま、なんて?
目の前にいるハックスの目は、相変わらずまっすぐレンを見ていた。
緑のような、青のような、灰色のような、ふしぎな色。けれどその瞳に、煩わしげな色はほんの少しも浮かんでいない。
ぽかんと口をあけたレンに、ハックスは重ねて言う。
「今日は、何が何でも早く帰って来る。約束する。なあ、レン──すまなかった」
「なんで」
レンには理解できない。
怒らないのか?面倒なことを言いだしたのは、俺なのに?なんで。
「なんで、アーミが謝るの」
なんで、アーミが泣きそうな顔をしているんだ?
「……俺がバカだからだ」
そう答えたハックスの声が、震えていることに気づき、レンは驚く。それが、さっき自分が発した声とそっくりな事にも。
レンは自分でも理由がわからぬままに、とっさにハックスを抱きしめた。
泣かないでほしかった。笑っていてほしかった。
「えと、あの、じゃあ、俺も、ごめん」
ハックスがレンの肩で、なんだそりゃ、と笑う。泣いているようにも聞こえた。
「だって、俺も、バカだし」
しどろもどろに答えながら、レンは、自分がとんでもない思い違いをしていたんじゃないか、と思い始めていた。
──戦っているのは、俺一人、じゃ、ない、のか。
胸に暖かな痛みが広がっていく。さっき掴み損ねた確信が、今度こそ言葉となって戻ってくる感覚があった。
「ねえ、アーミテイジ」
──ああ、そうか。俺を弱くしていたのは。
レンは、ゆっくりとその確信を声に出す。
言葉を、ひとつひとつ確かめるように、丁寧に口に中で転がしながら。
「俺の手を、放さないで。何があっても。たとえ俺の為にならないとしても。あんたが放したくないと思うかぎり、絶対に放さないで」
──彼を信じ切れない、俺自身だ。
「頼む」
ようやくその言葉を口にしたとき、レンはただ祈るような気持ちでいた。もう一人の自分が、俺は祈ることすら懼れていたのか、と、心のどこかで笑った。
もう、怖くはなかった。
ただ、腕の中で静かに涙を流している恋人を、しっかりと抱き締めた。
長い長い沈黙の後、ハックスはただ一言、「うん」と頷いた。子どもみたいに素直な動きに、レンは笑った。彼も笑った。
気がつけば、ここ数日ずっと身を焼き続けていた焦燥感は、きれいさっぱり消えていた。
突如、けたたましいアラームが鳴り響く。
ハックスが慌てたように尻ポケットから、携帯電話を取りだしだ。
「やべ、もう出ないと」
照れ隠しのようにそう言ってレンの体を引きはがした彼の目尻には、まだ光るものが残っていた。それをさりげなく拭いながら、レンに尋ねる。
「レン、バイト終わるの何時だ」
「今日?シフト入ってないよ」
「そうか。なあ、もし良ければ……そうだな、15時頃、会社に迎えに来てくれないか、車で」
「え、いいの?」
思いがけない提案に、レンは目を輝かせる。
「行く!」
「ありがたい。気がついたら21時とか、俺はやりかねないから……」
「わかった。じゃあついたら電話するね。──ねえ、帰り、ちょっとドライブ行く?」
「ああ、いいな。どこか連れてってくれるか」
「うん!」
「あ、早く食えよ、パンケーキ。せっかく焼いたのに捨てたりしたら、拗ねるぞ」
捨てないよ、と口を尖らせるレンの声を背に、ハックスはばたばたと身支度を調え、ダイニングを出て行こうとして立ち止まり、振り返った。
「じゃああとでな」
見送りはいいから食え。
パンケーキを指さしそう言い残すと、彼は大慌てで走り去った。
「あ……」
レンが「行ってらっしゃい」を言う暇もなく、バタンという玄関のドアが閉まる音がする。
行ってらっしゃいのキス、してないのに。
急に静かになったダイニングで、レンは一人頬を膨らませる。そして、すぐにふふっと笑った。
それでこそアーミ、だな。
午後のドライブデートはどこに行こう。ゆっくり二人で話ができる場所がいい。
川沿いの公園に行こうか。それとも、ずっと遠くのピザ屋までピザを買いに行って、そのまま家に帰るのもいいかもしれない。
家に。
「そう、だよな」
レンはつぶやく。
「ここが家だもんな」
キッチンに目を遣れば、調理台もシンクも荒れ放題だった。パンケーキ一枚でどうしてこうなるんだと不思議になるほどだ。
極めつけのように床に落ちているソムリエエプロンを見てレンは苦笑する。
キッチンカウンターに置かれた皿には、真っ黒の、不思議なかたちのパンケーキ。
いったい、彼はどんな顔でこのキッチンに立っていたのだろう。
カウンターに腰掛けると、すっかり冷めてしまった皿を、レンは大事そうに引き寄せる。
きっとレンを、レンのことだけを思って作られた朝食ににっこり微笑む。
「いただきます!」
おだやかな土曜日。
朝陽の差し込むダイニングに、レンの幸せそうな声が、ひときわ大きく響いた。
(了)