過去のない男
この星は雨ばかりだと、なぜ誰も言わなかった。
ぐずぐずとべそをかく空を睨みつけ、「長居はしない」言い訳めいた言葉を投げるが、窓の外を眺め続ける背中は微動だにしない。
抱きすくめようと伸ばした手はさらりと交わされ、むなしく空を掴む。
「御用は何です」
ぴしゃりと跳ね付けるような口調。不機嫌の証。
「……顔を見せろ」
命令してようやく、じろりと視線だけを流して寄越す、不遜な部下。
「知らなかった、こんな降る星だとは」
差し詰め俺は、恋人のご機嫌取りに必死な道化か。
「思い出すんだろう、故郷の」
「いいえ」
決してみなまで言わせない。近付けば、数歩、遠のく。繰り返し。
「逃げるな」
痺れを切らして禁じ手の力をふるう。磔にされた一瞬、彼の口の端に僅かな嘲笑が浮かび、すぐ消えた。
「私に故郷はありません」
「……ごめん」
「ですから、何が」
「ちゃんと消してやるからな」
あんたの過去。捕らえた獲物を強く抱きしめ、耳元でそう囁くと、呆れたような溜め息が、小さく返った。
メランコリーの妙薬
雨は嫌いだ。
植物の葉に、柔らかな泥に、室内に、忍び込む湿った気配。閉じることのできない耳が、肌が侵されていく。記憶の蓋が重い音を立てて開く。コバルトブルーのインクが、脳内に溢れる。濃紺の混乱。恐怖。
先ほどから背後で喚いていた歳下の上官が、痺れを切らして私を抱き締めた。驚くほど高い体温は、冷えた肌に心地よい。
彼は言う。過去を消してやる、と。
稚い彼。せいいっぱいの慰め。
――違う人間になれる日が来ると、お前、本気で信じているのか?
絶望にも似た哀しみを無理に呑みくだす。
叫び出したい衝動のかわりに、彼の瞳を覗いた。
深く、吸い込まれそうに強く、穏やかな鳶色。
頭を満たす濃紺が不意に引き、少しずつ淡くなっていく。
認めよう。
どうやら私は、お前に甘えているらしい。
「俺を連れてここから逃げろ。なるべく早く」
紅い唇を薬のように貪りながら、譫言めいてつぶやくと、優しい男は、ただ、小さく頷いた。