おとといくらいからフェルの機嫌がわるい。
今も、キッチンに並んで腰かけてインゲン豆のすじを取ってただけなのに、なぜか急にぷんすこ始めた。
いや。なぜか、ってのは違うか。理由はだいたい見当ついてるもんな。
だけど、フェルって
①怒ってないって本人が言い張ってる
②本当は怒ってるのに怒ってないって言い張るときに本当は怒ってるだろって指摘するとさらに怒る
③しかも指摘された理由まで合ってると激怒する
以上三点から、今のところ私は何も言ってない。そっとしておいてる。
昔からフェルは強情っぱりなところがあって、上官の私にも散々楯突いてきた。脱サラ(と我々は呼んでいる)してからはさらにひどくなった。このまま行くと、おじいちゃんになる頃には、立派な頑固じじいのいっちょあがりだろう。それはちょっと、なんだよなあ。だって私も頑固なんだもの。だいたい、フェルが意地張ってたら、私はだれに甘えればいいんだ?お前は私の安心毛布だろうに。
考えてるうちにムカムカしだして、私は不機嫌なフェルの様子をこっそりうかがった。
よーし。鳴かぬなら、だ。
他人の懐に入り込む技術だけで出世した私の懐柔術を見せてくれる。
私は、とびきりの猫なで声を作ると、彼にやさしく呼びかけた。
「フェ~ル」
「……」
「フェ~ルくん」
「……」
返事が、ない。しかばねか。私は憮然とした。
いや、むくれてる姿もかわいいっちゃあ、かわいいんだけどなあ。3日はさすがに長すぎる。
「オーイ、無視するなよぅ」
「……してません。聞こえなかっただけです」
「へー」
いかにも、信じてません~て感じの返事をしながら、私は思いきり鼻の下を伸ばした。
フェルの肩がこわばる。
あ、イラっとしたな、これ。完全に失敗した。
し、しまった。懐柔するつもりが、ついからかってしまった……。
あわてて、取り繕うように話を繋げた。
「あの、こないだ話した件だけどさ」
「お好きになされば良いじゃないですか。僕に異論はないと申し上げたはずですよ」
みなまで言わせず、フェルは流れを断ち切るように、バンと机に手をついて立ち上がった。予想より大きな音がしたのか、フェル自身もびくっとした。
「ぼ、僕、ちょっと畑見てきます──残り、お願いしますね」
気まずそうに言い置いて、フェルはキッチンから去ろうとする。
ああ、待って。
作戦とかではなく、たんに置いていかれる寂しさにかられて、私は大いに焦った。
「だってお前、レン嫌いだろ」
迂闊にもその名を口にしてしまった瞬間、キッチンの空気が凍りついた。フェルの頬がひきつっている。
ま、まずい。
まずいまずいまずい。
最悪の切り出しかたをしてしまった。
「あ、いや、だからな──」
あわわと口ごもる私に、フェルは怒りを爆発させた。
「僕の好き嫌いなんかどうでもいいでしょう!問題は、貴方が行きたいかどうかです!」
「でも行きたいって言ったら怒ったじゃないか」
「怒ってません! ぜんぜん! これっぽっちも!」
「ほら怒ってる!」
「貴方が変なこと言うから!」
「私か?私が悪いのか?!」
──ああ、んもう。
最悪の展開だ。
売り言葉に買い言葉で始まってしまった口論は、お互いにしまったと思いつつなかなか止まらない。あー、あーあー、だからいやなんだよ……ってきっとフェルも思ってるんだろうけど……。
「レンが嫌いだから行きたくないなら、素直にそう言えばいいだけだろ?」
「『レン』!」
とつぜん、フェルは顔を真っ赤にしてかつての同僚の名を叫んだ。
「……な、なんだ、いきなり」
「あ、貴方は、いつも彼をそう呼ぶ」
フェルが声を震わせる。
「…………おん?」
私は戸惑う。いつもと違って、なんか泣きそうな顔をしている。
「……あの人をそんなふうに呼べるのは、貴方しかいなかった……」
「…………? それが、どうかした──」
「嫌なんです!!」
駄々をこねるようにフェルは言った。
「貴方とあの人が、特別な関係だったと思い知らされるから!」
「なっ」
私は絶句する。なんてこと言い出すんだ、こいつは。
「彼と私は別に、そんな関係じゃ──」
「わかってます!」
フェルはぶんぶんと首を振った。
「僕と貴方のような関係とは違うことくらい、僕にだってわかります。けど……」
言葉を詰まらせて、肩を震わせて。
「僕は……彼には、なれなかったから……」
「フェル……」
とうとうべそをかきだした恋人に、私はなんと声を掛けていいかわからなくなる。
「……バカみたいだってわかってるのに、自分の気持ちが制御できなくて……。貴方に酷い態度を取ってしまった」
レン──いまの偽名(?)はベン──から、近くまで来たから会おうという連絡が入って以来、フェルの態度はおかしかった。私はそれを、たんに彼がレンを嫌いだからだと思っていたのだが。
「まさか、お前がそんなこと考えてたなんて、な」
彼にゆっくり歩み寄ると、フェルは面目なさそうに視線をそらした。
「──この、ばかもん」
くすりと笑って抱きしめる。フェルは、ふええんと良くわからない声で鳴いた。
「私は、お前があいつでなくて幸いだったんだが」
とんとん、と背中を叩く。
「ていうか、あいつは俺たちのキューピッドみたいなもんだろ。妖怪だ。粗末にすると祟られるぞ」
うう、と不満げな唸り。容認しがたいらしい。
あの……と遠慮がちにフェルがなにか言った。
「ん? なに? なんだって?」
「…………さい」
「聞こえませーん」
「ご……」
ごめんなさい……と消え入りそうな声は告げ、私はなぜだかとろけるような甘い気持ちに満たされて、気づけばでれでれに笑み崩れながら、んー、いいよいいよー、許してあげちゃう、かわいいんだから、んもー! と奇声を発していた。ついでにフェルの息の根が止まらんばかりにギュウギュウ抱きしめた。
「デザートにアイス食べていい?」
「はい……」
「クッキーもつけていい?」
「……はい……」
「チョコは?」
「…………ど、どうぞ…………」
根本的な問題は何も解決していなかったが、目の前の問題は解決した。私のその夜のデザートは、それはそれはゴージャスなものになったし、怒ってるフェルは怖いが、謝ってるフェルはその怖さの百倍くらい癒されるから、プラマイでお釣りがくる。
きっとしばらくは私をべたべたに甘やかしてくれるはずだ。
そういやレンに返事してないことがチラッと頭をかすめたが、まあいいや。
終わりよければ、すべてヨシ。
世のことは知らないし、神がいるかどうかも知ったこっちゃない。
けど、我ら、なべて事もなし、なのだ。
そう。
フェルがいれば。