NOSTALGIA

「やはり、貴方でしたか」
 部屋に現れたミタカを見ても、彼女は顔色ひとつ変えなかった。
「それで……父は」
 感情のない黒い瞳がじっと見つめる。
「そう、ですか」
 答えのない沈黙に、その目は暗く翳った。
 ミタカが静かに口を開く。
「貴女をオーダーの保護下に置くことも可能です。二十四時間体制で──」
「いえ」
 他人行儀で事務的な、冷たい口調を制し、彼女は|屹《きっ》と顔をあげた。
「貴方の目的は、最初から父の頭脳と、そして……命だった」
 もう、充分です。
 だらりと両手を下げ、彼女は低くつぶやく。
 ──はやく、殺して。

 *

「博士が亡くなったらしいな」
 人気のない執務室。明かりもほぼ落とされ、デスク上のスタンドだけがぼんやりとハックス将軍の横顔を照らしている。
「……痛ましい事故だな」
 ミタカは黙って顔を伏せる。
「しかもご息女は、嘆きのあまり自刃なさったとか」
「──は」
「お前は、彼女と懇意にしていたらしいじゃないか。|じつに残念だよ《圏》。ゆっくり休むと良い」
「ご配慮、痛み入ります」
 堅苦しく頭を下げるミタカに、ハックスは静かに微笑む。まるで飼い犬を慈しむかのように、彼は提げられたミタカの頭を撫でた。
 ミタカの鼻先を、えも言われぬ芳香がくすぐる。
 思わず深く息を吸い込んだ部下を見逃さず、ハックスは柔らかい笑い声をたてた。
「この香りが好きか?」
「あ、いや──」
「それなら」
 自らの手首をミタカの首筋にこすりつけようとハックスが手を伸ばす。けれどミタカは、慌てたように身を引いた。
「いけません」
「どうしてだ。同じ香りになれるのに」
 不満顔の上官に、ミタカは再び顔を伏せる。
「──血の匂いが」
「ち?」
「私の身体についた、血の匂いが移ってしまいます」
「そんなこと──」
「貴方のことを汚したくないのです──私からは、血の匂いしか、しませんから」
 そう言うと、ミタカは困ったように笑った。
 そして困惑するハックスに、では失礼いたしますと告げると、逃げるように部屋を去っていった。
 残されたハックスは、ただ一人、ミタカの去った暗闇を、長いあいだ見つめていた。

 *

「アーミテイジ!」
 呆然と佇むハックスの背中に駆け寄ったミタカが見たものは、足元に転がるひとつの死体と、彼の手に握られたナイフだった。刃先からは瑞々しい血液が滴っている。
「アーミテイジ、怪我は」
「…………」
「──ああ、ああ、良かった。貴方は無事なのですね」
「フェル」
 ハックスの身体をあらため安堵するミタカの顔と、自分が刺した死体の男の顔を交互に眺めていたハックスが、のろのろと口を開く。
「こいつ、私を知ってるって」
「大丈夫、大丈夫ですからね」
「村のみんなにバラすって」
「彼は、おそらくは戦争時代の秘密を売り捌いて生き延びている集り屋です」
「銃を出してきて、それで、私、だから……」
「始末は僕に任せて。それより、ああ、貴方が無事でよかった──」
 ナイフからハックスの指を必死に引き剥がし、ミタカは強くハックスを抱き締める。やがて小さな啜り泣きが聞こえ、ぼんやりしていたハックスの感覚もようやく現実に引き戻され始めた。
「……すまない……私は……」
「いいんです! 貴方が、貴方さえいれば、僕は何も要らな──」
「なあ、フェル」
 きつく腕を回すミタカをやんわりと押し戻し、ハックスが遠慮がちに言う。
「これでようやく、私もなれただろうか」
「? どういう……」
 不思議そうな顔をしたミタカに、ハックスは静かに笑った。
「お前と、同じ匂いに、なれたかな」
 血塗れの笑顔は悲しげで、けれど見惚れるほどに美しい、とミタカは思った。
 とても、懐かしい匂いがした。