[寺AU][phelmitage][kylux]指先の記憶

!注意! 特殊設定の現代AUです。ご了承のうえお読みください。

※こちらは、phelmitage時空における、kyluxの断篇となります。ミタカは出てきません。※

指先の記憶

「何時だと思ってる」
 インターホン越しに聞こえるハックスの陰険な声に、レンは早くも来たことを後悔しはじめていた。
「……」
「何しに来た」
「……」
 マンションのエントランスに棒立ちのまま、レンは一言も応じない。寒そうに大きな体を縮こまらせ、だぼだぼの黒パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、じっとオートロック制御の呼び出しパネルを睨み付けている。
 建物の内部は空調が効いていて暖かかった。それにもかかわらず、レンは芯から凍えていた。ここまでの夜道が冷たすぎたせいだ。十二月も押し迫った冬の深夜の寒さで、長い黒髪に包まれた耳さえもが千切れそうだ。
 人影のないエントランス・ホールは静まりかえっていた。白と黒の大理石で出来た床は磨き上げられ、ホールのやわらかな照明を受けて艶々とかがやいている。壁はオーク材を意識した焦げ茶色のパネルで、マンションというよりは高級ホテルのような雰囲気を醸し出していた。人工的になりすぎぬよう、隅々まで意識の行き届いた洗練されたデザイン。
 レンは、いつまで経ってもここが好きになれない。
 ブツッと音を立てて通話が切れ、レンは意識をインターホンに戻した。
 だんまりを決め込むレンに痺れをきらし、ハックスがインターホンの受話器を置いたのだろう。
 無表情のまま、先ほどと同じ部屋番号をプッシュする。
 ややあって先刻以上に険のある声が応じた。
「なんのつもりだ」
「呼ばれたから」
 レンはようやくそれだけを答える。しゃべってみると、思った以上に嗄れた声が出た。長いこと黙っていたせいだ。
「……呼んだろ、あんた」
 ほかになんと言ったら良いかわからなかった。こんな返事では激怒されるだろうとばかり思っていたのに、意外なことに、はるか階上に住む姿の見えない声の主は、何も言わずに黙りこんだ。
 不自然なほどの沈黙に、レンは急にいたたまれなくなる。
「いや、俺の勘違いなら、帰る」
 すまん、と口の中でつぶやき、半身を翻しかけたとき、ポンと間抜けな音がホールに響いた。
 振り返ると、入り口の透明な自動ドアがするすると開いていくところだった。
 パネルを見る。すでに通話中を示す赤ランプは消えていた。
 開いたドアの先を見つめる。エントランスのしたしげな明るさとは裏腹に、つづく廊下はうす暗い。最奥にかまえるエレベーターの扉は分厚く、現代的な建物と不釣り合いにクラシックな見た目をしていた。真横に設置された簡素な丸ボタンが、誘い込むように赤い光を放っている。
 待ちくたびれたように自動ドアが閉じ始める。我に返ったレンが慌てて滑り込むと同時に、ドアは背後でぴたりと閉まった。

  ハックスの部屋の前で、念のためもう一度ドアホンを押した。返事はなかった。
 ドアノブに手を掛けると、鍵は開いていた。
 玄関は真っ暗だった。家の奥からも、物音ひとつしない。
 勝手に上がり込み、勝手知ったる間取りのかたっぱしから電気を点けて歩く。 
 玄関、廊下、バスルーム。次々に照明のスイッチを探り当てて点灯していくと、にわかにハックスの一人住まいは、煌々とした明かりで照らし出されていった。
 だが、どこにもハックスの姿はなかった。
 リビングまで侵攻したレンは、その入り口にぼんやり佇む。二十畳ほどのリビング・ダイニングを見渡す。白々しいLED照明に照らされ、正面一面のガラス窓には、レンの全身が映り込んでいた。所在なげに立ち尽くす黒ずくめの長身が、夜空に浮かび上がる。パーカーの胸にプリントされた、自身の所属するインディ・バンドのロゴが場違いに騒がしく、レンはそっと鏡像の自分から目を逸らした。
 カーテンを閉めながら、寝室をまだ覗いていなかったことに思い至る。
「何しに来た」
 踵を返そうとした瞬間、背後からぶっきらぼうな声が聞こえた。
 部屋の主が、不機嫌もあらわなしかめ面で立っていた。
 上は白のYシャツ、下はパジャマというアンバランスな格好をしている。Yシャツはしわくちゃで、そのまま寝ていたであろうことを窺わせた。いつもはきっちり撫で付けられ、整髪料でガチガチに固められている赤毛が、今は寝癖でボサボサだ。血色の失せた肌は、現実離れして青白い。
 いつ見ても幽霊みたいな奴だな、とレンは思う。
「帰れ」
 投げつけるように言い、ハックスはくるりと背を向けた。少し足下がふらついていた。
 深夜三時の部屋に通しておいて、今さら何を。
 帰すつもりならエントランスで追い返せただろう。
 助けてほしいなら、きちんと言え。
 言いたいことが一気に脳内をかけめぐり、レンは口ごもった。
「呼んだだろ」
 去っていく背中に投げかけられたのは、けっきょく先ほどと同じ、その一言だけだった。
「用があるときは電話する」
「そういうことを言ってるんじゃない。あんた、わかってるだろう」
 だるそうに足を引きずり歩くハックスを追いかけ、レンはめずらしく声を荒げる。
「風邪を引いただけだ」
 そのまま寝室までくっついて来たレンを邪険にしっしっと手で払いながら、ハックスは寝室のドアを閉じようとした。一瞬はやく、レンが隙間に足をねじ込む。暗い空間からは、閉め切って淀んだ空気が感じられた。
 忌々しそうに舌打ちしたものの、ハックスはそれ以上の抵抗を見せなかった。ただ面倒くさそうに頭を振り、ベッドに潜り込む。レンは寝室の電気も点けた。ハックスがうなり声を上げて布団を頭からかぶる。
「寝かせろ。しゃべるのもだるい」
 ぶつぶつと布団の下から聞こえてくる声に力はない。
 かたくなにレンと目を合わそうとしない彼の態度に、レンは確信した。
「やっぱ呼んだな」
 明確な答えを聞くまでは許さないとばかりに同じ問いを繰り返すレンに、
「しつこい!」
 ハックスは叫ぶなり、鬱陶しそうにがばと起き上がった。
「お前を呼んだかって? さあな。いま私には、四十度の熱がある。しかし、家には食う物すらない。外に出るのも億劫なのに、明日は外せない仕事が山積みだ。熱でうなされて、働かない頭で無意識にお前を呼ぶことも、ないとは言えん」
 ひと息にそこまで吐き出すと、気が抜けたのか急にがっくりとうなだれた。慌てたレンが駆け寄る。
「あっつ」
 額に手を当て、レンは思わず悲鳴をあげた。『四十度の熱』は、大袈裟ではなかったようだ。
「寝てろ」
「だから寝てたんだろうが。それを、お前が」
「わかった、俺が悪かった。寝てくれ」
 素直に謝ったレンに、それでも何か嫌味を言おうといったんは口を開いたハックスだったが、すぐにあきらめたように目を閉じる。
 額には汗が浮き、呼吸も少し荒い。調子の悪さがありありと見てとれた。
 レンは、急いでリビングに取って返した。なんでもいいから、なにか食べさせるつもりだった。

 極端に物が少ないリビングは、主の不調を知ったせいか、いつもに増して殺伐として見えた。
 この部屋に来るといつも、レンは以前住んでいたアパートを連想する。ハックスの住むこの町に来る直前に住んでいた、郊外の住宅街に建つアパートだ。プレハブに毛が生えたような安普請で、夏は暑く、冬は寒かった。当時は住む場所を頻繁に変えていたから、住んでいた期間は短い。だから、部屋の細部はほとんど覚えていない。
 レンが思い出すのは、引っ越しのときの記憶だった。

 荷物を積んだトラックが去った部屋で、レンの携帯が震えた。ハックスだった。
 いま何してる。
 引っ越し。
 またか。今度はどこだ。
 町名を告げると、近いな、と彼は小馬鹿にしたように答えた。たぶん、少しだけ笑っていたはずだった。
「そうなの? じゃあちょうど良いや、金貸して」
 少しでも近くにいたいと心のどこかで願っていたのを見透かされたようで、決まり悪いような、安心するような、奇妙なばつの悪さを抱えながら、レンは悪態をついた。
「いやだ」
「引っ越し祝いは焼き肉でいい」
 どうでもいい話をボソボソと続けながら、そろそろ自分も部屋を出ようと腰を上げる。
 玄関に一足だけ残した履き古しのアディダスのスニーカーに足を突っ込み、玄関に立ってふと、それまで住んでいた部屋を眺めた。
 がらんどうの住居に、暮れかけた夕陽の穏やかな茜色が射し込んで、床に二等辺三角形を描いていた。
 何も残っていなかった。
 
 このリビングは、あの日のアパートに似ている。
 レンはそう思う。
 はじめのうちは、単純に物がないところが似ているだけだとおもっていた。しかし、何度も足を運ぶにつれ、物だけの問題ではないのだと悟った。
 人が住むための何かが欠けているのだ。
 だが、それが一体なんなのか、どうしたらその何かを埋められるのか。
 それが、レンにはわからなかった。わからないまま、いつも少しだけ哀しい気持ちになった。

  冷蔵庫は空っぽだった。
 ハックスの言った「食うものもない」が誇張でもなんでもないことを理解して、レンは途方に暮れる。仕方なく、かろうじて残っていた牛乳をレンジで温め、ホットミルクを作った。戸棚を引っかき回して角砂糖を見つけ出し、これでもかと放り込んだ。

「飲め」
 寝室に戻ったたレンは、牛乳がなみなみ入ったマグカップをハックスに押し付ける。
「要らないのに」
 ベッドに上半身を起こしたハックスが、それを不機嫌そうに引き取る。
「砂糖は?」
「吐き気がするほど入れた」
 そうでもしないと、あんた飲まないだろう、と言外に匂わせるレンの嫌味を受け流し、ハックスは一口啜った。
「……足りない」
「それ以上入れたら、溶けない」
「底に残ったぶんは、スプーンでこそげ取って舐める」
 想像したレンが思わず眉をしかめると、ハックスは笑った。
「そんな食生活だから倒れるんだろ……」
 溜め息を吐きながら、レンはハックスの寝るベッドに腰かけた。
「明日、朝イチで買い物をしてくる。粥でも作るから、とにかく、あんたは寝てろ」
「粥は嫌いだ」
「パン粥のほうがいいか」
 ハックスの顔がみるみる曇る。
「あれを食うくらいなら、熱で死ぬ」
 むっとしたレンが突っかかるように返す。
「じゃあ死ねばいい」
「ようやく本音が出たな」
 険悪な沈黙が落ちた。
 そうしてしばらく睨みあっていた二人は、やがてどちらからともなく笑いだした。
「まあ、元気そうで安心した」
 レンが言えば、
「元気なもんか」
 本当にしんどかったんだぞ、とハックスが抗議する。
「なあ、覚えてるか。ガキの頃、俺が熱出したときのこと」
「……いや」
 ハックスは首を振った。だが、答えるまでに少しだけ間があった。
「覚えてるんだな」
 答えはない。沈黙が先を促しているようにも思え、レンは記憶をなぞるようにポツポツと語りだした。
「何て言ったっけか。修行で、とにかく俺のいる広間には誰も入っちゃいけなくてさ。俺が高熱で、身体が痛いって泣いてるのに、ジジイはおろか母さんまで俺のこと放置で」
 レンが懐かしそうに目を細める。その表情は、つらい記憶を呼び起こすというよりは、遠く幼い日の思い出を懐かしんでいるように見えた。
「ほんとひどい熱でさ。欄間が歪んで見えた。布団もないし、薄い座布団一枚しかなくて、熱いのに寒くて、ガタガタ震えて。声が枯れるほど呼んだのに、誰も来てくれなかった」
「お前のお袋さん、つらそうだったよ」
 不意にハックスが割って入る。
「お袋さんにかぎらない。寺務所も、本堂ですら、落ち着かない空気が漂ってた」
 マグカップを両手で包み込むようにしながら、ハックスは静かな声で続ける。
「まだ声変わりもしてないお前の泣き叫ぶ声が、裏の林じゅうに響きわたっていた。月子房の私たちですら、それが伝わるほど、お前の力は強かった」
「……でも、来てくれたのは、あんただけだった」
 レンの低いつぶやきに、ハックスがたじろぐ気配がした。
「私は何もしてない」
「嘘つけ」
 穏やかに、しかし即座にレンは否定すると、うつむいたハックスの頬の輪郭が、わずかに柔らかくなったように、レンには見えた。
「お前の声、クソデカくてな」
 直接脳内で暴れまわって、どうにかしないとこっちがおかしくなりそうだったんだよ、と彼は小さく付け加える。
「そんなふうになったのは、私だけだったらしいがな」
 レンの声で頭が爆発しそうだというハックスの訴えが、大人たちからはまったく無視されたという事実を、レンは後から知った。彼は月子だから、そんな能力があるはずないと、誰も彼のことを省みなかったのだ。
「あの時に、俺は確信した」
「何を」
 ハックスは、どこか物憂そうに問う。
「俺たちが通じ合ってるって」
 当時のレンは、『チャンネルが合う』と表現していた。レンの強い念はハックスに通じ、逆もまた然りなのだと主張したレンの言葉は、もちろん当然のように黙殺された。正当な継承者たる御子と、その避雷針ごときとが深く通じ合うなど、あってはならないことだからだ。
「その表現は誤解を招くからやめろ」
「だって」
 不満げに唇を尖らせたレンを遮るように、ハックスは声を張り上げた。
「何にせよ、風邪で倒れたときくらいしか使い道のない回路だ。御大層に崇めるもんじゃない」
「そうかもしれないけど、でも」
 あのとき俺、嬉しかったんだよ。
 言い掛けたその言葉を、レンはけれど呑み込んだ。こちらをじっと見るハックスの目が、言うな、と訴えているような気がした。
 決まり悪くなって視線を反らす。取り繕うように、レンは別のことを言った。
「あんたらしかったよな、あの“差し入れ”」
「だから、私じゃないって」
 あんたしかいないだろ、とレンはクスクス笑う。
「病気でしんどくて泣いてる年下のガキに、猫放って寄越すなんて、あんたくらいしか」
「あれは、お前が寒いって言うから……あ」
「ほら、あんたじゃないか」
 レンはとうとう腹を抱えた。

 あの日、孤独感と不安で押し潰されそうになっていた幼いレンは、高熱に震えながら固く閉ざされた障子をぼんやり眺めていた。障子に映った木の影が揺れる様さえ恐ろしく、涙が止めどなく流れた。
 なんでもいい。たった一言でいい。誰でもいいから、僕とお話しして──。
 強く強くそう念じた、そのとき。
 いきなりガタリと障子が開いた。
 久しぶりに目にする外の光に目を細めた彼の視界に飛び込んできたのは、三毛茶の毛玉の塊だった。
「え、なに」
 おもわずつぶやいた自身のひどく掠れた声が、やけに耳についたのを覚えている。宙を舞って乱入した毛玉は、畳に力なく横たわるレンのすぐかたわらに着地し、
「にゃう」
 と鳴いたのだった。

「混乱したんだぞ。いきなり猫が飛んでくるわ、頭のなかで『これで我慢しろガキ!』って大声でわめかれるわ」
「猫なら、お前の泣き言を延々聞かされても文句言わないだろうと思ったんだよ。あと、あったかいし」
 答えながら、ハックスも吹き出している。
 レンは、あの日夢中ですがりついた猫の感触を思い出す。
 やわらかくて、すべすべのふさふさで、重たくて、ぐねぐねしていて、そして、とても暖かかった。
「でも、猫放り込むかよ、普通」
「ほかに手近な生き物がいなかったんだから、仕方ないだろうが」
 寺で動物を飼うことは、固く禁じられていた。
 だから、猫が偶然寺の敷地内にいるずなど、なかった。
 あの日、突如飛来した小さな生物は、痩せてはいたが毛並みは艶々としていて、誰かが丹念に愛情込めて手入れをしているであろうことは容易に見て取れた。
 当時ハックスは、しょっちゅう罰として夕飯を抜かれていた。数時間単位で行方不明になり、どこに行っていたか問い詰めても決して答えない、というのが主な理由だった。
 行き先が寺の境内の床下だったことを知っているのは、レンだけだ。
 あの猫は、年上とはいえまだ少年だったハックスの、きっと心の拠り所だったはずだ。
 レンは、ハックスの様子をうかがう。
 追憶にふける彼の横顔からは、普段の張り詰めた刺々しさが抜けていた。
 あの猫がどうなったのか、思い出せない。飼ってもいい、とはならなかったはずだ。
 ハックスのマグカップは、いつの間にか空になっていた。
 いつになく柔和な目つきは、熱に負けてただ眠いだけにも見える。
 そろそろ、寝かせたほうが良いか。
 感傷を断ち切るように、レンはハックスの手からカップを引き取り、ベッドから立ち上がった。
「あんたは嫌だろうが、俺はここに泊まる。ソファ借りるからな」
 寝室を立ち去りつつレンが宣言すると、ハックスは「好きにしろ」とだけ言って布団にもぐりこんだ。
「電気消すぞ」
 返事はない。
 レンがぱちりとスイッチを切り替えると、ベッドルームは闇に沈んだ。
 そのまま立ち去ろうと背を向けたとき、
「死ねるなら、とっくに死んでる」
 不意にハックスの低い声が唸った。
「それなのに、生きている。わかるだろう。私はそういう人間なんだ。だからレン、もう――私に構うな」
 レンは立ち竦む。
 ハックスは、それ以上何も言わなかった。
 しばらく暗がりに立ち尽くしていたレンは、やがて静かにハックスの枕元に戻った。こちらに背を向けて横たわる輪郭が、闇に融けかけていた。
 そっと手を伸ばし、その髪を撫でる。
「おやすみ、ハックス」
 囁くように告げ、足音を殺して部屋を出る。
 ドアを閉めるとき、ちらりと見えた彼の肩は、震えていたような気がした。

  冷え切ったリビングに戻り、キッチンに立つ。
 マグカップを洗っていると、不意にさっき撫でたハックスの髪の毛の感触が指先に甦り、レンは少しだけ泣いた。
 あの日の猫のように、柔らかな髪だった。


(了)


死蔵していたSSが熟成したため手放します……。ミタカと出会う前の煮詰まった二人ですね。
煮え切らない関係、人間をやっているなという実感があります。


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