[寺AU][kylux] つなぐ

!注意! 特殊設定の現代AUです。ご了承のうえお読みください。

つなぐ

  Aさんは、三十七歳。赤毛が印象的な、スマートな男性である。
 一八〇センチ以上ある身長に、俳優のような整った顔立ち。場にいるだけで目を引く、華やかなタイプだ。
 待ち合わせ場所に指定したファミリーレストランに到着するなり、彼はクリームソーダを注文し、
「甘い物が好きなんです」
 と照れくさそうに笑った。一見冷たそうな雰囲気が、笑うと愛嬌あふれる人なつこさに変わる。そのギャップがまた、魅力的だった。
 異性同性問わずモテるだろうな、というのが、私の率直な感想である。
 彼は、現在は学習塾を経営している。地域密着型の小規模経営だとご本人は謙遜なさるが、ホームページで確認するかぎり、有名校への進学率は目を見張るものがある。かなりのやり手なのだろう。そう思わせる鋭さが、洗練された物腰から垣間見えた。
 なお、彼の出自はとても特殊で、そのまま記すと差し障りがある。
 本稿でも多くの名称を仮名に変更し、掲載できない部分は割愛している。
 その旨、了承されたい。

 ◆
 
 Aさんの父は、とある仏教系宗教団体の関係者だった。
 彼は幼少期を、教団の所有する施設で過ごした。
 道場と呼ばれるその施設には、同じような境遇の子どもや信者の家族がたくさんいて、〝修行〟に励んでいた。
 けれどAさんは、ある事情から、道場に入るのが遅れた。通常、小学校に上がる一年前から(つまり五才から)住み込みという形で修行に入るが、彼は八才になってからだったというから、たしかにかなり遅い。
「どこにも居場所がない、息苦しい、というのが正直なところで」
 当時を回想して、Aさんは述懐する。
 彼の母はすでに他界しており、父は教団の仕事ばかりにかまけ、Aさんに対しては冷淡だった。
 道場には厳しい序列があったが、Aさんのお父さんの職位(階級のようなもの)はとても低く、当然のようにいじめられたという。
 さらに、彼は道場に入るため小学校を転校しており、友だちもいなかった。
 すぐには無理でも、何年かすれば友人はできるのではないか。
 そう尋ねたが、彼は静かに首を振った。
「みんな知ってるんですよ、ウチのこと」
 苦笑いと共に、懐かしむように目を細め、腕組みをする。
「〝そういう子〟って目で見られて、仲間はずれです。気味悪かったんでしょう、きっと」
 道場は、地元では霊山として信仰されている山の中腹にあった。
 霊山とはいっても、道路は通っている。交通の便が悪いだけで、電話すればタクシーだって来た。
 それでも、本堂と呼ばれるメインの建物の裏手に広がる杉林や、さらにその奥の山は、昼でも薄暗く、なにか尋常ならざる気配がひそんでいたという。
 入ってはならないとされる領域――いわゆる禁足地――には注連縄(しめなわ)が張られていたが、それより手前の、少し開けたただの雑木林ですら、日によっては踏みいることがためらわれた。
「考えてみればおかしいですよね、教団の敷地内は、清浄な空間のはずなのに」
 そう言って、Aさんは自嘲気味に笑う。
 
 教団が売りにしているのは、特殊な祈祷だった。
 だが、それはまともなものではなかったと、Aさんは断言する。
 詳細は記せない。
 が、聞けば確かに、眉をひそめたくなるような詐欺まがいの内容であったとだけ添えておく。
「表向きはご立派なことを言ってますが、あいつらがやっているのは、たんなる外法です」
 吐き捨てるように言う彼の顔から、一瞬、穏やかな仮面が剥がれ、はげしい怒りが覗く。しかしそれは数秒で、すぐに元の柔和な表情に戻った。
「幼心に欺瞞には嫌気がさしていました。だからグレた――というのは、言い訳かな」
 目を伏せ、彼は目の前に置かれたクリームソーダを啜った。
 日に日に孤立し、鬱屈していったAさんの教団に対する嫌悪は、手に負えないまでに膨れ上がっていった。そしてとうとう、みずからの行いをもって教団の評判を貶めてやろうと画策するまでになったという。
 行いをもって貶めるとは、具体的に何を?
 問いただした私に、彼は、《善くない》ことです、と意味深に微笑んでみせた。
 意味が理解できずに、言葉を重ねようとした私を制するように、彼は話をかぶせた。
「当時は、美少年で有名だったんです、私」
 冗談めかした口調だったが、口許に浮かんだ笑みが急に艶めいたものに変わった。ようやくその意味に気づき、私は思わず顔を伏せる。
 同性であるにもかかわらず、彼の眼差しが放つ妖しい魅力に心拍数が上がる。魔性、という言葉が頭をよぎった。
 相手には事欠かなかった、と彼は言う。
 同輩にとどまらず、教団の上位幹部や、ときには彼の噂を聞きつけた、寺の外部の者さえいたという。彼の年齢を考えれば、普通に犯罪、虐待である。狭い世界だし、大人たちには筒抜けであったはずだが。
 痛ましさと、なぜか罪悪感を覚えて疑念を口にすると、
「言ったでしょう。あの団体は腐りきっていた。私のしていることは、父ですら承知でしたよ。ただ、彼らは鬱憤のはけ口として、黙認していた。それどころか、私目当てで入団するものを歓迎してる節さえありました」  
 絶句した。
 口ごもる私におかまいなしに、Aさんの話は続く。
「その日も、いつものように勤行をさぼって、私は、堂の裏から抜け出しました」

 ◆

  彼が十四才のころの話だ。
 すでに教団にいっさいの信用を置かなくなっていたAさんは、毎日のように日々のお勤めから逃走しては、《善くないこと》に励んでいた。
 約束の場所に向かうが、相手がやってこない。
 夏だから、滝行用の白装束一枚でも寒くはない。
 午後の太陽は高く、鬱蒼としげる杉林にも容赦なく日射しが照りつける。
 待ち合わせ場所は本堂からはずいぶん離れていたから、あたりに人の気配もない。
 蝉時雨だけが降りしきるなか、Aさんは目を閉じて、じっと待った。
 だが、相手はいっこうに姿を見せなかった。
 三〇分ほど待ったところで、待つのに飽きた。
 目を開くと、あたりが薄暗い。
 雨でもくるのかと仰ぎ見ても、杉の樹々の黒い頭ごしに見える空は青く澄みわたっている。
 日が翳っているのはでなく、視界に紗が掛かったような暗さだった。
 本能的になにかマズいと察知し、あわてて身を起こす。
 そして、やけに静かなことに気がついた。
 静かすぎる。
 蝉の鳴き声はおろか、自分が踏みしめているはずの草が擦れる音さえ聞こえない。
 世界から、音という音が消えていた。
 不意に、背後に気配を感じた。
 ぞわりと首筋の産毛が逆立つ。
 ふと自分の腕を見下ろすと、蒸し暑い夏のさなかなのに、びっしりと鳥肌が立っていた。
 刹那、背中に強烈な視線が突き刺さる。
 振り向いちゃダメだ。
 本能が告げた。
 にもかかわらず、Aさんは振り返ってしまった。
 細長い女がいた。
 いや、女かどうか、正確にはわからない。
 なぜなら、女の身長は、三メートル近くあったからだ。
 そして、真っ白い浴衣のようなものを纏った全身の幅は、おそらく十五センチもなかった。
 頭には笠のような、濃い褐色のなにかを被っている。
 両脇からは、ぞろりと黒髪が垂れていた。
 恐怖にからだがこわばり、金縛りにあったように動けなくなる。
 お遍路の女性を、めちゃくちゃな縮尺で引き延ばしたような《ソレ》は、樹々の間で、たよりなくフラフラと揺れていた。
 その動きが、なんとも言えず忌まわしい。
 と、だらりと垂れた異様に長い腕が、ギクシャクと動いた。
 Aさんに向け、手招くような仕草をする。
 まずい、捕まる。
 そう直感したAさんは、とっさに逃げようとした。
 しかし、足がその場に張り付いてしまったように動かない。
 まるで立ったまま金縛りにあったかのようだ。
 女がゆっくりとこちらに近づいてくるのが、視界の隅に映った。
 動け!
 足に向かって全神経を集中させ、全身全霊をこめて号令をかける。
 逃げるんだ!
 あらんかぎりの力で身を捩る。
 金縛りが解けた。
 女は、すぐそこまで迫っていた。
 Aさんは、全速力で駆けた。
 女がAさんを追ってくるのが、気配でわかった。
「アレは、明らかに私を狙っていました」
 なぜだかわからないが、憎悪にも似た狩りの意志を、Aさんは感じていたという。
「捕まったら殺される。あいつは私が憎くてたまらないんだ、と思いました」
 どこに逃げようかなど、考えられなかった。
 ただ、必死に走り続けた。
 途中、何度か女の声らしきものを聞いた。
 金属が擦れ合うような、乾いた古い木が軋むような、なんとも厭な音だったという。
 あいつ、怯える私を嗤っている。
 そう思った。
 
 どこをどう走ったか、気がつくと見慣れた場所に出ていた。
 教団敷地内のはずれに建つ、地蔵堂のある辻だった。
 よく考えれば、本堂を通り過ぎずに辻に出るなど不可能であったはずだ。が、無我夢中で駆けていたAさんに、そんなことを気にする余裕はなかった。
 辻は二股に分かれている。
 片方は山の禁足地に通じている。
 もう片方は、集落につづく道だ。
 どっちだ。
 どっちに逃げれば。
 背後に感じる不吉な空圧は、どんどん強くなる。
 焦ったAさんの耳に、 
「こっち」
 不意に、どこかから聞き覚えのある声が響いた。
 思わず足を止め、頭をめぐらせる。
「こっちだよ」
 さっきより近くで、ふたたび声がした。
 いつからそこにいたのか、Rくんが数メートル先、辻の突き当たりから手招きしていた。
 Rくんは、教祖の孫にあたる少年である。Aさんより五才年下だった。
 素直な子だが、とても聡明で、それゆえ常に、教団で身の置き所がなさそうにしている様子が印象的だった。
 教団に馴染めないというシンパシーゆえか、RくんはAさんによく懐いていたという。
 だが、
「あのころ、私はRが大嫌いでした」
 Aさんはそう言って笑った。
「自分は教祖の孫で、みんなに傅(かしず)かれているくせに、私を憐れみやがって、って」
 かけられる情けが逆に惨めで、Aさんは彼の後ろについて回るRくんを、邪険に扱った。
「お前、なんで」
 こんなところにいるんだ。自分のことは棚にあげ、いっとき恐怖も忘れて驚くAさんに、Rくんは素早く駆け寄ってくる。
 そして、一瞬、ためらうそぶりを見せたあと、ぐいとAさんの着物の裾を引っ張った。その思いがけぬ強さにたたらを踏む。いつもの気弱そうな雰囲気と違い、有無を言わせない迫力に満ちた様子で、Rくんは言った。
「あそこに隠れて」
 辻に建つ、地蔵尊の祀られた祠を指さす。
「はぁ? あんなところに隠れるスペースなんて……」
「いいから」
 そう言いながら、Rくんはお手本を示すように、祠の裏に身をひそめてみせた。
 ちいさなRくんはすっぽり隠れられるが、中学生の自分には無理だ。
 そう言おうと口を開けたが、
「はやく!」
 悲鳴に近い囁き声がそれを遮った。
 続けて、ガサガサと下生えを踏み鳴らす騒がしい音が間近に聞こえた。
 悪寒が背筋を走り抜け、全身が総毛立つ。
 もう、知るか。
 なかばヤケクソになって、AさんはRくんのすぐ横に身を屈めた。
 くるくるとカールするRくんの黒髪が、鼻先にくっつきそうな距離で揺れる。よく見れば、彼の腕といい首筋といい、びっしりと鳥肌が立っていた。
 けれど、彼の浮かべる表情は、怯えているというよりは、賢い犬があたりをくまなく警戒しているような凛々しさにあふれていて、Aさんは妙な安堵感を覚えた。
 そして、気がつく。
 目の前にある祠が、やけに大きいのである。
 隠れる前にちらと見た印象では、お地蔵さまは九才のRくんの、さらに半分くらいの小ささだった。祠も、それとほぼ同様のサイズであったはずだ。
 けれど、いま目の前で彼らを守るようにそびえる祠は、子どもふたりが屈んでも、余裕のある高さと幅だ。
 自分たちが縮んでしまうか、祠そのものが膨張しないかぎり、こんなことはあり得ない。
(なんだ、これ。どうなってるんだ)
 おまけに、そこは結界が張られでもしているかのように、安心感に満ちていた。
 遠くのほうで、あのワケのわからないモノが戸惑っている様子がわかる。
 二人を見つけられないのだ。
《大丈夫だから、ここにいなさい》
 ふとそんな声が聞こえた気がして、Aさんはあたりを見回した。
 誰もいない。
 隣を見ると、Rくんが(お地蔵さまだよ)と小声で囁き、力強く頷いた。

 狐につままれたような思いで、Aさんはそこにしばらく隠れていた。

 一時間ほども経っただろうか。
 隠れるのにも飽き、すこしAさんがうとうと仕掛けたころ、急にあたりの空気が変わった。
 雨雲が引いていくように、視界が明るさを取り戻した。
 蝉たちがかしましく鳴き始める。
 横を見ると、Rくんはすでに立ち上がっていた。
 なぜか少し躊躇したような様子で、
「もう、平気みたい」
 と言う。そして、同じく立ち上がって祠を振り返るAさんをちらりと横目で見た。
 祠は、来たときと同様に、なんの変化もなく、ちんまりとそこに鎮座していた。
「あの、お兄ちゃん」
 Rくんが呼び掛ける。
 またもためらうようなそぶりで、彼は中途半端に腕をこちらに差し伸べていた。
 Aさんは、そこで初めて、Rくんが手を繋ぎたがっているのだと気づいた。
 夢から醒めたような心地でいたAさんの心が、にわかにざわついた。
 手を取ってやりたいという、歳上としての素直な優しい気持ちと同時に、気づかぬふりをしてやりたいという意地悪な気持ちも芽生えた。
「……いえ、それだけじゃありません。気づかないどころか……」
 自身が行っている、《善くないこと》を、Rくんにしてやろうか。
 そんなことまで考えたという。
「最低です。いくら子どもといえど、やって良いことと悪いことの判断ができない歳じゃなかったのに」
 自分が恥ずかしいと、Aさんは語りながら目を伏せた。
 Rくんの幼い手が、心許なげに空をさまよう。
 お前はいいよな、いつだって大事にされて。
 いつも高みの見物で、私を憐れんで。
 胸に、モヤモヤとどす黒い気持ちが溜まっていく。
(なあ。お礼に、良いことしてやろうか)
 そう言おうとして、口を開いた、そのとき。
 背後から、やわらかな空気が、Aさんを包み込んだ。
 とてもあたたかく、春の陽のような、だれかが背後からそっと抱きしめてくれているような、そんな優しい体温のようなぬくもりだった。
 ハッとして拳をひらく。
 全身を覆っていた緊張が、ゆるりと溶けていく。
 Aさんは、Rくんの手を取った。
 Rくんが、Aさんを見上げ、にっこり笑った。

「彼と手を繋いだのは、おそらく、あのときが初めてです」
 すこし照れくさそうに、な、とAさんが隣を見遣る。
 視線の先には、ずっと寄り添うようにAさんの横で話を聞いていたRさん――当時のRくん――が、はにかんだような笑みを浮かべ、無言で頷いていた。
 現在、二人は恋人同士である。
 なぜ、Rさんは現場にいたんですか。
 私の問いに、Rさんが口を開く。
「追いかけた理由さえ、あのときはわかっていませんでした」
 いつものように抜け出すAさんを、Rさんは目撃していた。その背中に、小さな影のような靄(もや)を、認めたのだという。
「なんかマズいなあって感じのする、気味悪い影で。でも、止められなくて」
 生真面目なRくんは、お勤めをサボるなど、考えの外だったのだ。
 けれど、それからしばらくして、とてつもなく厭な空気を感じたのだという。
「あ、A、死んじゃうって、確信しました」
 それは、Rさんにとって、かつて感じたことのない恐怖だった。
「あの〝厭な感じ〟に対する恐怖というより、彼を失うかもしれないという事実が、心底怖かったんです」
 だから彼は、生まれて初めてお勤めを抜け出した。
 そして、一心に走った。Aさんを助けるために。
 結果、大目玉をくらいはしたが、どういうわけか教団幹部たちはそれ以上二人を追究しようとはしなかった。お沙汰も有耶無耶にされた。
 取材の最後に、私は無粋を承知で、わざとこんな質問してみた。
 なぜ、そうまでしてAさんを助けたかったんでしょう?
「たぶん、普通に、初恋、でしたね」
 まあ俺、初恋しかしてないですけど。
 そう答えて、彼はやわらかくほほえんだ。
 こちらの心まで温かくなるような、やさしい笑みだった。 」
 

 パソコンから顔を上げ、私は大きく息を吐く。
 背中を伸ばし、肩を回すと、くたびれたオフィスチェアが軋み、ぎりぎりと腰のあたりが悲鳴をあげた。
 仕事部屋の入り口付近にかかった壁時計を見れば、深夜二時。
 今日はここまでにしようかなと思いつつ、どうにも据わりが悪く、机の前から立ち去れない。
 とある怪談実話アンソロジーのための書き下ろし依頼を受けたのは、つい最近だ。
 締め切りまで時間がなく、誰かの穴埋め原稿である可能性が高かった。が、駆け出しの怪談実話作家にとって、ありがたい申し出であることには変わりない。
 しかも、依頼内容が、この手のジャンルにしてはめずらしく、「ほっこり幸せな怪談」というテーマだったから驚いた。
 どういう巡り合わせか、私は先日、まさにぴったりの話――Aさんの話――を、知人を介して聞かせていただいたばかりだったからである。
 これぞ運命。私は、二つ返事で引き受けた。
 そこまでは良かったのだが。
 書きかけの原稿が表示されたままのディスプレイに目を向ける。  
 今回の話は、作中でも断ったとおり、事実からかなり手を入れていた。
 作中ではAさんの所属する団体がまるで新興宗教であるかのような書きぶりだが、実際は違う。
 彼の出自となる宗教団体は、小さいが、れっきとした寺だ。ルーツをたどれば江戸時代初期まで遡れる。その寺が発行した寺請証文などが地元の郷土資料館に所蔵されている事実からも、かなり由緒正しい寺院であることがわかる。
この寺が、特殊な祈祷をおこなっているというのは本当だ。
 Aさん経由で実際に見せていただいたから、間違いない。秘術中の秘術で、かぎられた者しか知らないとのことだったが、神道に似た作法が数多く見られて、ひじょうに興味深かった。
 祈祷をおこなうには、僧侶とは別に、補佐役が必要とされる。Aさんは、補佐役を司る分家の出身だった。そして、問題なのは、この補佐役だった。
 現在は補佐役の継承が中止されていることもあり、作中ではたんに「位が低い」と表現するにとどめた。だが、彼の話がすべて本当なら、Aさんの虐待めいた待遇と併せて、大問題になりかねないような習慣がまかり通っていた。
 そんな事実を知りながら、エピソードを面白おかしく書いても、いいのだろうか。 
 
 さらに、Aさんの話の内容にも、こまかく気になる点があった。
 原稿では伏せたが、彼が口にした《善くないこと》の「相手」の名前に、かすかだが聞き覚えがあったのだ。
 どうにも気になり、なにげなくその名字をインターネットの検索窓に入れてみた。
 めずらしい名字だったせいで、既視感の正体はすぐに判明した。
 件の相手は、寺院が所在する県議の、当時秘書を務めていた男と同姓だったのだ。
 では、なぜ私がこの名前を覚えていたか。それは、かつての議員秘書の妻が、傷害未遂事件を起こして逮捕されたからである。一時期それなりにスキャンダルとして騒がれたから、記憶に残ったのだろう。
 なんとなく気にかかり、とうとう私は、少ない時間をやりくりして図書館にまで出向いた。
 当時の地方紙等をかたっぱしから漁って得た情報は、件の傷害事件が、まさにAさんのいた寺院で起きていたという事実であった。
 しかも、時期もAさんの話とほぼ一致しているのだ。
 おまけに、秘書の妻は犯行の動機として「夫の浮気相手が寺におり、殺害するつもりだった」と供述していた。
 となると、Aさんが語ったエピソードには、別の側面が見えては来ないだろうか。
 すなわち、山でAさんを追いかけてきた「女」とは怪異などではなく、嫉妬に狂った秘書の妻の姿を仮託した、いわば一種の「たとえ話」だったのでは――。
 少し悩んでから、私はAさんに直接尋ねてみた。
 驚いたことに、彼はあっさりと認めた。
 それどころか、嬉しそうにこう言った。
「やはり、ご著書のとおり、入念にお調べになる方だったんですね」
 そして、試すような真似をしたと非礼を詫びた。真摯な口調から、彼の謝罪は嘘ではないと感じた。
 そこで、私は、自分の考えを訥々と述べた。
 私は、自分の記録した話で、差別や偏見が助長されるようなことがあってはならないと考えている。実話と銘打つからには、そういった責任からは逃れられない。今回の話は、かなり特殊な状況を含んでいることを鑑みて、ある程度ボカしても「あの事件だな」とピンと来てしまう人がいる可能性が高い。教団の被害者等を含め、今でも苦しんでいる人々があれば、その傷口を広げる事態になるかもしれず、掲載は慎重を期すべきではないか。云々。
 彼は黙って聞いたあと、静かにこう言った。
「実は、××さんに書いていただきたい話があるのです。怪談ではなく、告発ルポとして」
 唐突な成り行きに戸惑う私に、Aさんは畳みかける。
「今のお話をうかがって、やはりどうしてもあなたにお願いしたいという思いが強くなりました。怪談だからといっておざなりな取材で済ませず、弱い立場の人間を思いやってくれる、あなただからこそ」
 電話口の声はこれ以上ないくらい真剣で、かつ厳しかった。ファミリーレストランでの取材の合間に見せた、鋭い眼光を思い出す。
 その口調から、彼の覚悟が生半可なものではないことが、痛いほどに伝わってきた。
 けっきょく私は返事をできず、ただ考えさせてほしいとだけ伝えて、電話を置いた。
 
 もし彼の提案を呑むなら、まずはこの原稿を仕上げてしまわないといけない。
 しかし、彼が《真実》を白状した以上、「細長い女」の恐怖を重点的に仕上げることはかなわなくなった。
 いや、取材した怪異をどう演出して、魅せる怪談に仕立て上げていくかが、怪談作家の腕の見せどころではあろう。だが、ああもはっきり作り話と認められてしまっては、こちらとしても立つ瀬がない。
 けれど、時間がない。取材でもたついたせいで、締め切りは刻一刻と迫っている。背に腹は代えられないと腹をくくるべきなのだろうか。
 迷いを反映してか、書き上げた話は、どうにもピンボケだ。
 ぼうぜんとディスプレイを眺めながら、私は、取材が終わって去って行く、二人の姿を思い出していた。
 寄り添う背中と、まるで互いだけが頼りだとでもいうように、硬く繋ぎ合わされた手。
 その後ろ姿に、かろうじて手を繋ぎあった幼い二人がオーバーラップする。
 彼らの人生とは、どんなものだったのだろうか。
 Aさんは、電話を切る間際、こうも言っていた。
「信じてもらえないかもしれないですが、お地蔵さまの祠が、私たちを匿(かくま)ってくれたのは、本当なんですよ」と。
 だったらいっそ、こちらの不思議をメインに据えて、もう一度書き直してみようか。
 うん。行けるかもしれない。
 私は机の前に舞い戻り、勢いよくキーボードを叩きはじめる。
 頭をフル回転させて構成を組み立て直しながら、Aさんたちの背中を押した、慈愛の存在に思いを馳せる。
 これも、お地蔵さまのくださったご縁かもしれない。
 ルポの話、受けてみようか。
 そんなことを考えた瞬間、閉め切った仕事部屋を、ふうわりとやさしい風が駆け抜けた気がした。


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