麝香

 寒々しい場所だった。そして虚ろな場所だった。
 がらんとした、およそ住居とは思えない彼のアパートとどこか印象が似ている。
 小さな灯りが、コンクリートの冷ややかな壁に黒々とした巨大な影を映し出す。
 一人の男が、床に屈み込み、腕を前後に動かしていた。
 その一心不乱な後ろ姿は、日々の糧を得るための労働に勤しむ勤勉な労働者のようでもあり、あるいは熱心に神に祈りを捧げる敬虔な信者のようでもある。
 だが、彼の足元に横たわるのは、人間の屍だった。
 四十代くらいだろうか。中肉中背、赤髪の女性だ。顔に恐怖の表情を張り付けたまま、目を見開いて死んでいる。
 彼女は、二つに千切れかかっていた。
 男の手に握られた巨大な鋸が、腹部と腰部を行き来して、その断絶を完全なものにしようとしていた。男が全身を大きく揺らすたび、湿った音と共に血溜まりが広がっていく。
 埃と、血と、そして何か機械油のような匂いの漂う暗闇に、男の息遣いが浮いては消える。
 目を凝らすと、壁際にはボール大の包みたちがうずたかく積まれていた。ひとつひとつ丁寧に白いシーツに包まれてはいるが、付着した茶色い染み、大きさや形状からも、人間の頭部であることは明らかだ。良く見れば端から頭髪らしきものが覗いているものもある。
 さらに、頭部以外は部屋のあちこちに散乱していることもわかった。こちらには逞しい男性の脛が数本、向こう側には美しい女性の腕が束ねられて、といった具合だ。人種も年齢も様々だ。
 いや、散乱しているのではない。どれも部位ごとに分類され、肌の色ごとに分けられているようだ。
 ──神経質な彼らしい。
 場違いなおかしさがこみあげ、私は思わずほほえんだ。その気配にようやく気付いたかのように、男が手を止めた。
 ゆっくりと振り返る。
 普段と何も変わらない仕草だった。
 いつもの小洒落た服とは違って、透明なレインコートを身にまとい、全身に返り血を浴びている以外は。
「遅いじゃないか」
 少し皮肉げな笑みを浮かべながら、小首を傾げて抗議する。待ち合わせに遅れたときの、お決まりの挨拶。
 その端正な顔に、返り血が転々と飛び散っているのが見えた。あまりにもいつもの彼で、悪夢でも見ているかのように現実感がない。
 息苦しい。
 声を出せない。
 彼が一歩、こちらに近づく。
 合わせるように私は後ずさる。
 冷たい汗が背中を伝い、全身が緊張に戦慄くのがわかる。
「これが」
 ようやく絞り出した言葉は、しかし平静を装ったつもりなのに掠れ、ほとんど喘ぎのようだった。私は、それをなぜかとても恥ずかしく感じる。
「これが、君の」
「その通り」
 鷹揚に頷く彼は、あくまでも優雅だ。そう、普段のように。
「いつか招待すると言いながら、こんなに先延ばしにしてしまったことを、申し訳なく思うよ」
 言いながら一歩、また一歩とこちらへ近づく。大股に歩を踏み出すたび、血と臓物のまざった足跡が、コンクリートの灰色の床を汚していく。
「親しい語らいのときは心に甘く、いつだって去りがたい。そうだろう?」
 屍から飛び散った肉片を踏みつけるその様は、地上の王のごとく尊大で揺るぎがない。獲物を追い詰める獣の足取りだ。そして不意に歩みを止め、ふわり、と芝居がかって一礼した。
「ようこそ、僕のアトリエへ!」
 朗々とした美声が響いたその瞬間、辺り一帯を神々しいまでの光の渦が満たした。
 大量のフラッシュライトだ。
 あまりのまばゆさに思わず目を閉じる。瞼に、両手を広げた彼の姿が影絵のように焼き付く。
 彼。ステファノ・ヴァレンティーニ。
 彼が、彼こそが、追い求めていた殺人鬼。
 ──ここは、彼の猟場なのだ。
 恐ろしい現実が、実感を伴って襲いかかる。突然、間近で声がした。
「仕事にかかるとしよう」
 驚きに目を見開く。
 すぐ目の前に、彼の顔があった。
 彼の動きは、優雅で隙がなかった。
 気づいたときには、背後から羽交い締めにされていた。がっしりとした暖かな腕が頸に回される。細身の外見からは想像もつかないほどの力強さで、ギリギリときつく締め上げられる。彼の荒く湿った吐息が、私の頬にかかるのを感じる。呼吸ができない。酸素を求めて肺が苦痛に喘ぐ。ひゅうひゅうと喉が鳴る。彼の腕を引き剥がそうと必死に爪を立てたが、鋼のように頑丈でびくともしない。ばたばたと藻掻く足は、虚しく宙を蹴るばかりだった。
逃れようとする意志と、逃すまいとする意志。
 互いの生命がぶつかり合い、混じり合う死の舞踏。
 やがて視界がぼやけ、聴覚にもノイズが混ざり始めた。意識のなかで時間がほどけ、もつれ、すべてが熱い暗闇に呑まれていく。
 そしてはっきりと知る。今、私は、生きている、と。

 ──ああ、そうか。
 ステファノ。ぼくは、

 すべてが溶ける刹那、噎せ返らんばかりの濃厚な血の匂いの向こう、私は確かにほの甘い麝香を嗅いだ。