CHARMLESS MAN

「あんた、魅了の技は使えないのか?」
 けだるい日曜の午後の昼下がり。
 地下室のくたびれた革製のカウチにねっころがりながら、パラパラと『マニュアル』を繰っていたアダムが、思いついたように声をあげた。
 つけっぱなしのテレビからは、今日の気温が三十八度を超えたというニュースがながれている。ここ数日の異常な酷暑に耐えきれず、アダムは近頃、もっぱらドーナルの地下室に引き籠もっていた。
 いっさい日の差しこまない地下室はひんやりとして心地よい。キッチン、シャワー、トイレの水回りを有し、冷暖房、Wi-Fiも完備されたこの場所は、さながらちょっとしたシェルターのようだ。酷暑の避難場所としては、文句のつけようがない。
 ただ一点、壁際に設置された、古くてでかい棺桶を除いて。
「まだ眠いよ……」
 その棺桶から、弱々しい声が聞こえた。同時にゆっくりと蓋が開き、赤毛の頭がひょっこりと顔を覗かせる。
「アダムくん、またそれ読んでるの?」
 しょぼしょぼと眠そうな目を擦りつつ、ドーナルが棺桶から身を起こした。
「だって、これ使えば犯罪者の血を吸いたい放題できるんじゃないか? 街のゴミも一掃できて、あんたも腹もいっぱいになる。完璧じゃないか」
 カウチに仰向けの姿勢を崩すことなく、アダムが頭だけをのけぞらせてドーナルに顔を向ける。
「君の仕事は吸血鬼を狩ることであって、犯罪者をおっかけることじゃないでしょ」
 しかし、ドーナルはにべもなかった。
 そのままアダムの期待にみちた目を素通りし、まっすぐ冷蔵庫まで歩き、トマトジュースの紙パックを取り出す。ていねいにグラスに注ぎ、ごくごくと一気に飲み干す。ふーっと息をつくと、ようやく半開きの目がきちんと開いた。
「――それに、殺すなんてとんでもない。法の手に委ねるべきだよ」
 ドーナルの一挙手一投足を追っていたアダムは、その言葉にぐるりと目を回してカウチに再び倒れ込む。
 ドーナルの履いたクマさんスリッパが、コンクリートの床を歩くたびぺたぺたと音を立てるのを、路上のゲロを見るような目でながめながら、アダムはぶすっとむくれた。
「オヤジみたいなこと言うなよ、ドーナルのくせに」
「それこそ、お父さんだって悲しむだろう。立派な狩人に育ててくれたのに」
「とかなんとか、本当はできないだけなんだろ?」
 小馬鹿にするようなアダムの視線に、ドーナルが一瞬だけムッとするのがわかる。が、すぐに眉を下げると、
「吸血鬼の秘術は、暇つぶしのための遊びじゃないんです」
 そう言いながらカウチに腰掛け、アダムの抱える『マニュアル』を取ろうと手を伸ばす。
 アダムはその手をひょいと交わした。
「ちょ、返して」
「嫌だね」
 言うが早いか、アダムは身を起こし、カウチから跳ね起きた。本を奪いそこなったドーナルが、不格好にカウチにどさりと倒れこむ。
「だいたい、あんたの飯は誰が調達してると思ってるんだ? 俺の血啜ってるのに技のトレーニングもしないとか、大層なご身分だな」
「アダムくん! 意地悪しないでよ」
 ひらひらとマニュアルを頭上で振ってみせるアダムに、ドーナルが困った顔で抗議する。勢いあまってぶつけた鼻のあたまが赤い。
 そのまぬけな顔面に、アダムが思わず吹き出す。
「その鈍くささで、どうやって俺の狩りを手伝えるんだっての。せめてチート技の一個も持っておくべきじゃないか? ――なあ、いいだろ、ドーナル。ちょっとだけ。試してみようって、なあ」
 アダムの言うことがいちいちもっともなだけあってか、ドーナルは弱り果てたように頭を掻いた。
「でも、試すって、君に試すのかい? ……嫌だよ、だって」
 ほら貸して、とドーナルはマニュアルをひったくる。
「やっぱりそうだ。ここ、君の読めない箇所、こう書いてあるんだよ。『この術によって、セクシャルな魅力を増大させ、強制的に相手を支配し、従わせることが可能。また、引き起こされた感情や行為の記憶は術を解いたあとも保持されるため、のちの駆け引きなどにも有用』だって」
 アダムには読めない部分――アダムが便宜上〝ドーナル語〟と呼んでいる部分――を、ドーナルが必死にぽんぽんと叩く。
「記憶、消えないんだよ。アダムくんだってそんなの嫌でしょ」
「成功すればの話だろ。あんた、姿を消すのも、変身も、ぜんぶ俺に見破られたじゃないか」
「う、それは」
「逆に、俺を誘惑できたら大したもんだし、見直してやるよ。だって俺、あんたにこれっぽっちも魅力感じてないし」
「いや、そこはお互い様でしょう……なんか、微妙に腹立つな……」
「やばくなったら術を解けばいいんだからさ」
 な、な、とニンマリ笑うアダムに、ドーナルはとうとう根負けした。いつものように。

 *

「オーイ、どーなる」
「……って」
「どーなちゃん! オイ!」
「ああ、もう静かにしてってば! 気が散る!」
 ちょっとだけ血をもらうよ、と言ってアダムの人差し指から一滴程度の血を啜ったドーナルは、その後マニュアル片手に難しい顔をして何事かぶつぶつ唱えはじめた。
 それから30分が経過したが、いっこうに何も起こらない。
 アダムは飽きはじめていた。
 ――やっぱ無理かあ。
 あくびまじりに諦めかけていたとき、ドーナルが振り向いた。
「アダムくん」
「お、ようやく俺を誘惑する気になったか?」
 アダムの茶化す声を意に介さず、ドーナルはいつになく真剣な顔をして、口の中でなにごとかを唱えた。
「なんだよ。なんも変わらないぞ。ぜんぜん効いてこな」
 半笑いのアダムの顔が、そこまで言って凍りつく。
 最初は、まったくの別人が現れたのかと思った。しかしそれは、紛れもなくドーナルその人だった。
 ――な、なんだ、どういうことだ?
 ドーナルの、マヌケでほんわりした空気が消えていた。代わりに、削ぎ落とされた殺気のようなものを身に纏って佇んでいる。しかし、その鋭利な雰囲気は、同時に誘うような艶も彼に与えてもいた。
 吸血鬼モードに入った証に、彼の灰青の瞳が赤く光る。その妖しげな光に釘づけになり、視線を逸らせない。
 ふだんは頼りないだけの細い腰や、首。その曲線が、妙に色っぽい。
 思わずごくりと喉が鳴る。
 唐突に、ドーナルがスッと手を伸ばし、アダムの頬に触れた。途端、触れられた皮膚から背骨に、電撃がつたう。その衝撃に腰が砕けた。アダムはカウチに倒れ込む。追うようにドーナルが覆い被さる。
 ――え? え?
 ドーナルの吐息が鼻先にかかるのを感じ、アダムの下腹がゆっくりと反応する。自分の顔が赤く染まっていくのがわかった。
「あ、ちょ、ちょっ」
 ストップ、もう止め、と言おうとしたが、口がうまく回らない。代わりに掠れた吐息が漏れ、アダムはますます狼狽した。
 ――こ、これはヤバいぞ。アダム、冷静になれ。
 下半身から猛烈な勢いで這い上ってくる性欲に、必死に抵抗しようとする。が、それもほんの一瞬だった。頭の中は、薄い靄がかかったようにぼんやりとして、思考が働かない。
 間近に迫るドーナルの顔に、熱に浮かされたように見蕩れてしまう。
 ――こいつ、こんな綺麗な顔してたっけ。睫毛長えし、眼の形も、こんなに……
魅入られたように彼から目が離せない。
 と、急に、ずきりと右手の指先が疼いた。ドーナルが血を啜った傷口だ。
 その疼きが何を訴えているかを悟り、アダムは自分でも慄然とする。しかし、自身の中に芽生えた欲望はあまりに巨大で、コントロールできなかった。
 ――欲しい。もっと、血を、吸って。
 いつものように指先や掌からではなく、もっと、太い動脈――例えば、首筋から。
 それは抗いようのない情欲だった。
 ドーナルが、彼が、欲しい。
 欲しくてたまらない。
 ――もう、術とかどうでもいい。お願いだから……
抱いてくれ。
 そう言おうと口を開いたとき突然、ドーナルがほんの少しだけ身を引いた。戸惑ったような表情を浮かべている。
「あ」
 何か言いかけるドーナルに、アダムは苛立った。
 なんだよ。早くしてくれよ。
「あの」
 ――ああ、もどかしい!
 気も狂わんばかりの欲求が身体に渦巻き、アダムは懇願するようにドーナルを見つめる。けれど、ドーナルは困惑の表情を浮かべるばかりで、いっこうに手を出そうとしない。
 とうとう業を煮やしたアダムは、無我夢中でドーナルの首に手を回し、思い切り自分のほうへと引き寄せた。そのまま彼の足を払う。鍛えたアダムの筋力に、ぺらぺらのドーナルがかなうわけもなく、ドーナルがバランスを崩す。彼が小さくキャッと叫ぶのが聞こえ、アダムは頭に血が上るのを感じた。
 あっという間に二人の天地は逆転した。
「あ」
 組み敷かれたドーナルが、呆然とアダムを見あげる。
「お、お、落ち着いて、アダムく……んー! んんんんんーーーー!」
 何かを訴えかけようとしたドーナルの言葉は、しかしアダムの熱烈なキスに遮られ、くぐもった叫びに変じた。
 じたばたと藻掻くドーナルを易々と抑え込んだアダムが、何度も何度も激しく口づけをする。合間にドーナルの制止の悲鳴が挟まれるが、アダムは聞く耳を持っていないようだ。
 5分ほどそうしていたアダムは、ようやくを唇を離すと、何かに憑かれたような目でドーナルをじっと見つめた。涙目のドーナルが何か言う前に、彼はすばやく口を開いた。
「ドーナル」
 真剣な表情で、彼は言った。言い切った。
「抱いてくれないなら、俺が抱く」
「イヤーーーーーーーーッ!」
 ドーナルが絶叫した。
「諦めろ! 大丈夫! 優しくするから!」
「何言ってるの! 大丈夫じゃない! もう解いてる! 術、解いてるんだってば!」
 全身全霊をかけて暴れながら、ドーナルが必死に抵抗する。
「アダム! 目を覚ませって!!!! い、イヤアアア、犯されるうぅぅぅぅう! 助けて、ピーターさーーーーーーーーーん!!!!」
 突如ドーナルの口から飛びだした祖父の名に、アダムの目がカッと見開く。
 その名は、遠くに解き放ったアダムの理性を帰還させるには、充分に効果的だったようだ。
 アダムの目が一瞬にして正気に戻る。
「え? は? ――あれ?」
 自分の下で泣き喚いている鼻水まみれのドーナルを見遣ると、アダムは困惑したように彼を拘束している手を離した。
「あ、アダムのえっち! はなして、はなし、て……あ、あれ? アダム……? アダム、くん?」
「お、俺……俺…………」
 わなわなと震えるアダムと、引き攣った笑みを浮かべるドーナル。
 二人の間に、先ほどのドーナルの言葉が甦る。

『記憶、消えないんだよ。アダムくんだってそんなの嫌でしょ』

『記憶、消えないんだよ』

  記憶ヽヽ消えないんだよヽヽヽヽヽヽヽ

 アダムが、ふらふらと立ち上がる。
 その顔は真っ青だ。
「あ」
 ドーナルが慌てたように身を起こす。しかし、アダムの視界には入っていないかのようだ。
「……俺、ちょっと外走ってくる」
 そう言いながら、アダムは夢遊病のような足どりでドアに向かう。
「えっ、やめなよ。こんな暑いのに、熱中症になっちゃうよ」
「……うるさい」
 一体どこから出てくるんだと思うような低い声で、アダムが唸った。
「黙れ。ヘボ吸血鬼。死ね」
「ええ……理不尽……」
 どん底に暗い表情でブツブツと呪詛をつぶやきながら、去っていくアダムの背中を見つめていたドーナルだったが、バタンとドアが閉まると同時に、深々と溜め息をついた。
 自身の着ているTシャツを見下ろせば、襟ぐりがびりびりに破けていた。
「あ、危なかった……」
 とりあえ最悪の事態は回避できたことに安堵しつつ、ドーナルはしばらく、呆然と宙をみつめる。
 ――しかし、よくわかんないんだよな。
 首を傾げながら、マニュアルを拾い上げる。
 該当箇所を読み返す。何度も。しかし、何度読み返しても、理解できない。
 アダムがカウチに倒れ込んだ時点で、ドーナルは術を解いた、はずだったのだ。しかし、アダムは魅入られたようにドーナルの身体を手放そうとしなかった。
「なんでだろう。解除の方法がわからないなら、使えないよ。こんなの、危なくて。そもそも、僕はあそこから先どうしたらいいかなんか知らないし……」
 はぁ、と、またひとつ情けない溜め息を吐く。
「けっきょく、誘惑するノウハウは書いてないんだもん。社交スキルゼロの僕にどうしろって――あれ、そういえば」
 そこまで呟いて、ドーナルはハッとする。
「もしかして、あれ、僕のファースト・キス……」
 ――地獄だ……!
 三つも歳下の、しかも本来自分を捕食するはずの人間に、唇を奪われ、危うく処女まで散らされるところだったのか。そう思うと、情けなくて視界がぼやける。
 布越しにもそれとはっきりわかった、彼の熱い欲望を思い出し、ドーナルは頭をかかえた。ああああああ、と痙攣のような声が口からだだ漏れる。
 ――それに。
 わからないことは、まだある。
「これ、俺は術に掛からない、はずだよね……?」
 ドーナルは首を傾げる。
 ――なのに、彼がすごくセクシーに見えたのは、何でだろう?
 ついついっとマニュアルを指先でつついてみるが、もちろん本は答えない。
 ――綺麗な子だなとは思ってたけど、あんなに妖艶な表情までするとはな……。恐ろしい子だ……。
 妖しげに潤んだセピア色の瞳と、ものほしげに懇願するような眼差しを思い出し、赤面する。
「アダムくん、帰ってくるかなあ」
 はあああ、と、再び盛大な溜め息が漏れる。
 ――とりあえず、帰ってきたら好物のマカロニ&チーズ作ってあげよう。
 あれこれと仲直りの算段をしつつ、ドーナルはぐったりとカウチに突っ伏す。
 疲れ切った身体では、びりびりのシャツを着替える気すら起きない。
 柱時計が、素知らぬ顔で十八時を告げた。