[original] 台北橙

photo by Kuo Chiao Lin

photo by Kuo Chiao Lin on unsplash

台北橙

  夜中に、ふと目覚める。
 視線を感じた。隣で眠っていたはずの彼が、闇の中、横たわったままじっと僕を見つめていた。
「夢を見たよ」と、彼は言った。
「どんな?」僕は目をこすりながら、まだなかば夢の中から応じる。
「あれは、台北だ。行ったこともないのに、わかるんだ。きっと、昭和──昭和は変か。とにかく、80年代だ。狭い、でもごく一般的なアパートの一室で、ブラウン管のテレビがあって、壁掛け時計は振り子式で、カレンダーも掛かってる。易占かな、漢字がたくさん書いてあるやつ。テーブルは、脚が藤製で、天板はガラス。灰皿が載ってる。吸殻がたくさん残ってるが、あれは私が吸ったんだろうな」
 物語りでもするかのように、淡々と彼は語る。ねむたい者が出す、特有の掠れた声の心地よさに、僕はふたたび目を閉じた。
 台北のアパートが見えた。窓が開いていた。
「窓が開いててな。部屋の奥の机に置いてあるラジオからは、知らない番組が流れてくる」
 開いた窓の外には、すぐ隣のアパートが迫っていて、同じような窓から、同じような構造の一室が覗けた。留守なのか、誰もいない。洗濯物が干してあるのが見えた。
 流しっぱなしのラジオからかすかに聞こえるノイズ混じりの音楽。どこかノスタルジックなメロディ。馬の滑らかな尾が奏でる、艶やかな弦の音。
「胡弓だよ」
 ああ、これが。初めて聞いたのに、とても懐かしい。
「私はソファに座って、新聞を読んでる。お前は、台所の椅子に腰かけて、足の爪を切ってる」
 僕はランニング姿に、穿し古したゆるゆるの下着。いがぐり頭には汗がにじむ。蒸し暑くなってきた部屋の扇風機は、それでも動いていない。僕なりの節約法。彼は室内でも、半袖の白い開襟シャツにスラックス。それでも汗ひとつかかない。
 褪せた橙色の床に、窓から差すオレンジの西日が落ちて長く伸びる。
 彼が、煙草に火を点ける気配がした。
 ──体に悪いよ。
 そう言った僕の言葉は、僕の知らない異国の言葉だった。口調も、イントネーションも、自分じゃないみたいで妙だった。
 ──まただ。
 僕には答えず、彼は新聞の一点を穴のあくほど見つめたまま絞りだすようにそう言った。思い詰めた声。新聞を掴む指は、不自然なほど強く強ばっている。
 ──また、駄目だった。
 ──次があるさ。
 ラジオが置かれた机の上に積み上がった原稿の山から目を反らし、僕はわざと軽く言う。写真でしか見たことのない、年代物のタイプライターと万年筆。彼のこだわりだ。そのこだわりが、実を結んだことはない。
 ──そんなこと言って、本当は私に愛想が尽きたんだろう。
 粘着質で暗い声に、努めて笑顔を浮かべる。ちらりと銀行の残高の数字が頭の隅をよぎった。
 胸を掻き毟られるような物哀しい胡弓の旋律が、不意に激しいノイズに歪んだ。アンテナの向きが変わったのかもしれない。
 ああ。
 僕は、閉じた目をさらにつよく瞑る。
 この先は、知りたくない。
 西陽のオレンジが強くなる。眩しすぎて目に痛い。
「僕たちは、どうなった?」
 これは夢だろう、と、すがりつくように彼に問う。
 アパートの彼ではなく、寝室の闇に横たわるはずの彼に向けて。
「私が、お前を」
 声を詰まらせた彼は、それきり死んだように押し黙った。

 ──殺したんだね。

  浴室から伸びる、自分の両足が見える。
 すんなり伸びて血の気のない肌は、我ながら美しいとさえ思えた。
 ──いいや、まだだ。まだ……
 ──でも、いずれは殺す。
 ──……すまない。
 彼が嗚咽した。目を閉じた僕の頭を掻き抱き、啜り泣く。食い縛った歯のあいだから、不明瞭な愛の言葉が漏れる。僕が生きているあいだはついぞ聞くことのなかった、ストレートで優しい言葉が。
 ──いいんだ。
 そう答えた僕は、もう開かない目で微笑んでいた。彼に見せられないのが、残念だった。後悔しなくていいと、証明してやれないことが、つらかった。
 だって、本当に、僕は構わないんだから。
 ──泣かないで。
 彼の溢す涙が顔じゅうに降る。なんて温かいんだろう。
 それだけで、僕は幸せだよ。
 硬くなっていく冷えた身体では、それを伝えられないことだけが、心残りだったんだ。

「すまない」
 耳のすぐ横に感じる彼の温かい吐息。
「いいんだ」
  僕は微笑む。


 ノイズまじりの胡弓が悠々と流れる夕方、そうやって僕は、台北で死んだ。


オリジナルとして書いたやつをミタハクとしてかべうちに投稿してオリジナルに戻してこちらに掲載。
書き留めておかないと、と思う悪夢がたまにあります。