ブランシュ

 上客だけが案内されるサロンの片隅に、その男はいた。
 異国風の刺繍が施されたソファにだらりと横たわり、長い足を投げ出して寛いでいる。ゆるくウェーブがかった黒髪、黒縁の眼鏡、黒い瞳。仕立て良い上品な書生風ローブを身に纏った彼は、どこからどう見ても道楽にうつつを抜かす、金持ちの小倅といったところだろうか
 誰あろう、アーミテイジ・ハックスである。
 彼の目の前のテーブルには、形も色もとりどりの凝った壜が所狭しと並べられている。
 そのすべてが、香水であった。
 彼の密かな道楽だ。
 もう何年も、こうして少ない時間をやりくりし、変装までしてわざわざ自ら商談の場に足を運ぶほどには、熱を上げている。
 ときおり、ハックスはテーブルを挟んでむかいに座った商人と言葉少なに会話を交わす。商人のほうも心得たふうで、彼の一言でさっと商いの品物をしまい、そして取り出す。阿吽の呼吸は、彼が良い顧客であることを何よりも雄弁に物語っていた。

  商談が開始されてから、すでに小一時間ほどが経過している。
 選り分けられた商品たちの数からしても、そろそろお開きの頃合いであった。
「今日は、このくらいで」
 いつもの言葉を合図に商人は軽く頷くと、山と積まれたサンプルを購入分とそうでないものに手際よく選り分け始めた。
 鮮やかな手際をぼんやりと眺めていたハックスの目が、商人が「不要」に取りのけたうち、ひとつのラベルで止まった。そこに書かれていた言葉に、思わず声を掛ける。
「試すだけだが、いいか」
 頭の片隅には、一人の男の面影が浮かびつつあった。
 商人は作業の手を止めると、黙って指し示された壜を手に取り、小さな紙切れに中身を振りかける。それを受け取り、ハックスはそっと鼻先に近づけた。
 最初に感じたのは、弱い香辛料、そして薔薇。瑞々しさの溢れる草花。やがて、奥深くにひそむ甘い官能が顔を覗かせる。
 清冽で凛として、それでいて柔らかな木綿のようなまっさらな香り。媚びのない複雑な甘さが、あの男の静かな眼差しに重なった。
 不意に思い出す。

  初めのうち、こんなわざとらしい匂いの何が良いのだと、彼は香水をあからさまに嫌っていたものだ。
 しかしある日、手慰みに勝手にハックスの香水壜を片端から開けていた彼が、あれ、と首をかしげた。今あんたがつけているのはこれか?と真剣な顔で問うてくる。そうだと答えると、しばらく壜の中身をひくひくと嗅ぎ、それからおむもろにハックスの首筋に突撃してきた。突飛な行動に驚いて悲鳴をあげたハックスをまったく無視し、彼は思う存分にうなじの匂いを嗅いだあと、「匂いがちがう……。つまり、あんたからする香りってのは、あんたの肌の匂いも交じってるってことか?」と真顔で言い放った。
 たしかにそのとおりではあるが、あからさまに「肌の匂い」などと言われためずらしく赤面するハックスを不思議そうに見つめ、彼は言った。
「悪くないな」と。
 あの日から彼は、ハックスの道楽を全面的に受け入れたのだった。

「待て」
ハックスの制止に、商人がぴくりと動きを止めた。一拍おいて、ゆっくりと振り返る。
「これも貰おう」
 そう言うと、商人は黄土色のローブの奥から光る二つの黄色い目で、じっとハックスを見た。その視線に、常には感じられない強い好奇の気配がにじむのを感じ取り、ハックスはばつの悪さを覚える。この男(いや、女かもしれない)は、妙に聡い所がある。
 ──やはり、俺の好むものではないよな。
 しかし、彼は商売人だ。次の瞬間には訝しげなそぶりなど一切なかったかのように、黙って黒いキャップに白いラベルが貼られただけのシンプルなボトルを差し出した。
「こちらでお間違いないですか」
 奇妙に抑揚のない共通語が言う。
「ああ」
 ハックスが頷くと、彼は黙って帳簿に何事かを書き付けた。
「承知しました。では、本日分も、いつものように。お帰りの頃には、所定の場所に」
「頼む」

 その日、サロンを立ち去るハックスの足どりが普段よりぎこちなかったとしたら、それは彼の胸に満ちた、不思議な高揚のせいだろう。
 ──この香りは、彼に似合う。
 そんなことを思ったのは、生まれて初めての体験だった。
 己ではなく、他人の肌に乗った香りを欲する。そんなこともあるのか、と、自分でも驚く。
 しかし、ハックスの口もとは緩む。
 たおやかな青さは、きっとあの男の肌の上で、華やかに花開くだろう。
 ──漆黒の男に贈るには、少し皮肉な名前だがな。
 香りの名を告げたときの反応を考えるだけで、さらに笑いがこみあげる。

 堪えきれずにハックスはとうとう、はは、と幸福そうな笑い声をあげた。