きみと食べる未来

ワシントンDC、チャイナタウン。
日曜の昼下がり、レンとハックスは昼飯について絶賛口論中だった。
「あんなもん脂肪と塩分の塊だろう?せっかくチャイナタウンに来たのに、何もジャンクを食わなくたっていいじゃねえか。俺はもっと軽くつまめるような」
「だーかーら!ラーメンはジャンクじゃないって!っていうか、自分だってちょっと前には、流行抑えとくためにって張り切ってあっちこっち行ってたくせに!」
「あのときは仕事半分だったの!そうでもなきゃ誰があんな高価いばっかりのデブの素──おい、レン。聞いてるのか、おいってば」
不意に黙り込んで足を止めた恋人に、ハックスは苛立たしげに声をかける。しかし、その声が聞こえていないかのように、レンは会話を唐突に放棄してしまった。
「うわ、なつかし……ここだっけ、この店」
そう言って、さっきまで通りすがろうとしていた小さな店をみつめ、ぽかんと口を開けている。
感慨深げにきょろきょろと店の外観を観察しはじめたレンに、ハックスも文句の口を止めた。
「なんだ、来たことあるのか、この店?」
「うん、たぶん。──俺さ、ボルチモアら辺に住んでたじゃん、出会ったばっかの頃」
「……そうだったな。覚えてる。朝、出てったかと思ったらアパートの前でぶっ倒れやがって。てっきり発作とか、なんか持病があるのかコイツって焦ったらさ」
その時の様子が今でも目に浮かぶハックスは、思い出してクスクスと笑う。
「“腹が減って動けません”だもんなあ」
「だって、ほんとに食ってなかったからね……」
情けなさそうに顎をポリポリと掻くレンの表情が、決まり悪そうに俯いたあの日のそれと重なり、ハックスの思い出し笑いはさらに酷くなった。つられてレンも噴き出す。
二人して、ひとしきり笑った。
「実はさ、あのとき、最後に食べた食事がここのつけ麺だったんだ。だからギリ生きてたと思うんだよね」
「なんだそりゃ」
「ここのチャーシューつけ麺ってね、めっっちゃくちゃ旨いんだけど、さらに凄いのが量なんだよね。異常に多いの。しかも俺、それの大盛り食ってたから」
数日はアレがお腹のなかにいてくれたんだよねえ、と笑うレンは、懐かしそうに店の正面に掲げられた看板を見上げた。素っ気ないシンプルな木枠の看板には、白地のキャンバスに筆書きで抽象的なイラストが描かれていた。ゆるりとした円に、一本の線。丼に渡された箸を図案化したものだろうか。
「じゃあ、ここ入るか」
不意にハックスが言った。
「え、ラーメン嫌なんじゃないの?つけ麺てラーメンみたいなやつだよ?」
突如心変わりを宣言したハックスに目を丸くし、レンが訝しげに問いかける。
「それくらい知ってるよ。──まあ、今日見つけたのも何かの縁だろ。せっかくだし」
「マジで?やった!」
レンは小さくガッツポーズをすると、気が変わらないうちにとでも言うように、ハックスの手を引いて店に駆け込んだ。

§

入店してすぐのところに置かれた券売機を見つけ、レンは小さく歓声をあげた。
「あー、ぜんぜん変わってないや。じゃあ俺、これ頼もっと」
何の躊躇もなく〈チャーシューざる〉と書いてあるボタンを押す。なにげなくそこに記された値段を見たハックスが、素っ頓狂な声をあげる。
「17.9ドル?『一蘭』並みじゃねえか!……俺も同じヤツにしよ」
「え、大丈夫?量、すごい多いんだよ」
「このアーミ様の本気を舐めるなよ。ていうか、お前、食い詰めてた時によく食えたな、こんな高いの」
「あー、取材前の打ち合わせで、エディターの人に奢ってもらったの」
「命の恩人じゃねえか」
「うん。でもその人とも、連絡途絶えちゃったな。今何してるんだろ」
他愛ない話をしているうちに、店員がやってきて食券を回収していった 。
清潔だが無愛想なカウンターだけの店内は、ほぼ満席だった。運良くすぐに席が空き、二人は並んでカウンターに腰掛ける。
目の前に広がる厨房の様子が物珍しいのか、席に着くなりハックスはきょろきょろし始めた。そして、鍋がデカいだの、ずっと水が出てる、水道代すごそうだのと、柄にもなく子どものようにはしゃぐ。
そんな恋人をレンはじっと見つめていたが、独り言のように静かにつぶやいた。
「もう、五年も前になるんだね。長いなあ」
しみじみしているレンに、ハックスがきょとんとした顔を向ける。
「何だよ。倦怠期だとでも言う気か?」
満足させてるつもりなんだけどなあ、なんか趣向変えるか?と大声で言いかけるハックスの口を、レンはうわっと叫びながら手で蓋をした。
「ちょ、そういうつもりじゃないってば!」
「わかってるって、冗談言っただけだろ」
「だからね、こういう所でそういう──」
「ハイ、チャーシューざる2つ、お待ち!」
始まり掛けた痴話喧嘩にかぶせるようにカウンターから声が飛ぶ。二人の目の前につけ麺の皿と、つゆのたっぷり入ったボウルが供された。
「うわあ、懐かしい!いただきます!」
「…………マジか」
レンが感激した声で言うのとほぼ同じタイミングで、ハックスが低い声で呻く。
海苔が散らされた平たい麺は、皿の上に小山のように盛り上がっていた。ボウルにたっぷり入った湯気のたつほぼ透明な琥珀色のスープからは、出汁のきいた良い匂いが漂っている。つゆの中の大きいチャーシューたちは、どれも分厚く、やわらかそうな赤身と脂身の比率がいかにも美味そうだった。
が。
問題は、そのチャーシューの量だ。
何事かと目を疑うほど、これでもかとうずたかく投入されている。そのせいで、スープの表面がほぼ見えない。それどころか麺を投入するスペースさえなかった。
「……れ、レン。これ、どうやって食……」
震える指先で麺と肉の小山を指さしながら傍らの恋人に視線を向けたハックスは、彼が有無を言わさずチャーシューを貪り始めたのをみて絶句する。どこから取り出したのか、いつのまにか波打つ長い黒髪をヘアゴムで束ねてさえいた。完全武装だ。
「な、なるほど?いきなり、肉を、食う、と」
隣のハックスのことなど忘れたように肉に集中するレンを唖然と見守り、ブツブツ口の中でつぶやいていたハックスだったが、やがて急にキリッとした顔つきになる。そして「い、いただきます!」と唱え、目の前の料理に果敢に挑み始めた。

しばらく、二人はものも言わずに食べた。
少しきつめに酢が効いたシンプルな醤油の味と、底の方に沈んでいた甘めのメンマがよく合う。麺もするすると入るせいか、思っていた以上にずっと食べやすかった。

懐かしさと空腹が合わさってしばらくは麺に夢中になっていたレンだったが、四分の三あたりをすぎて、ようやくハックスの存在を思い出した。
──そ、そういえば食べ始めのころ、弱った鳴き声みたいなのが聞こえたような……。
「あ、アーミ?」
もしかして白目を剥いて泡を吹いているかもしれない、とレンは恐る恐る横を見る。
しかし、予想とは違い、そこには順調に量を減らしつつある恋人の姿があった。
「え、すごいじゃん」
思わず声を挙げると、なぜか青白い顔色になったハックスが気づいたようにレンのほうを向き、ニヤリと笑う。明らかにその顔は「どうよ」と自慢げだった。
「なあ、レン。旨いな、これ」
「!でっしょ!……ああ、よかったあ!」
ハックスの素直な感想に、レンは満面の笑顔になる。
「実はさ、俺、アーミの分のチャーシューは手伝うことになるんだろうなと思ったんだよ、食券買ったとき」
「いや、俺も料理来たとき、あー死んだなと思ったんだけどさ」
めっちゃ旨いとイケるもんなんだな、と笑うハックスを見て、不意にレンの視界が涙でぼやける。
「?!」
訳がわからず、レンは慌ててお冷やを呷った 。
「そ、そっか」
──え、なに。なんで泣いてんの、俺。
「な、なら良かった。でも、キツかった言ってよ?俺いつでも手伝うからね」
涙を悟られまいと誤魔化しながら茶化すレンに、「大丈夫ですぅ」とかわいらしく意地を張るハックスは嬉々として肉の山に戻っていく。レンも慌てて、残りの麺をかきこんだ。
出会ったばかりの頃、ハックスはこんなふうに笑わなかった。
プライドが高くて、嫌だと思ったものは最後まで嫌だ、で通した。
その彼がいま、俺の好きなものを受け入れて、あまつさえ旨いと言いながら素直に笑っている。
そして、俺も。あの頃は、食いつなぐのにも必死だった。治安の悪いボルチモアの町で、追い詰められたように小説を書いては絶望し、俺は一生独りで生きていくんだと思い込んでいた頑なな自分。
DCのチャイナタウンで、昼間から平然と下ネタを口にする恋人と一緒にラーメンを啜っているなんて未来を、誰が想像できたろう。
──ラーメン食ってるだけなのに、何エモくなってんだ、俺。バカみたい。
そう思いはすれど、一気にあふれ出したレンの多幸感は止まらない。
──この気持ち、ちゃんと伝えなきゃ。
そんな切羽詰った思いに駆られ、レンが勢いよく隣に向き直ったのと、ハックスがぐらりと倒れたのは、ほぼ同時だった。
ゆっくりと仰け反る彼の上半身が、まるでスローモーションのように見えた。
レンが、咄嗟に手を伸ばす。
「ちょ、ちょ、ちょ、アーミ?!」
なんとか椅子から転げ落ちる前にハックスをキャッチしたレンだったが、あまりに唐突なアクシデントに、悲鳴にちかい声をあげる。
その声を聞き、レンに抱きかかえられた恋人は、腕のなかでうっすらと微笑んだ。
「嘘でしょアーミ!アーミってば?!どうしたの?!だいじょぶ?!?!」
「……しい」
「何?!」
「……くる……しい……」
「……は?」
レンは目を剥く。
──まさか、いま「苦しい」って言った?
「な、なんで」
傍から見れば食事中にいちゃついているふざけたカップルに見えたかもしれない。
しかしその実態は、食い過ぎて気絶寸前の彼氏を必死にたたき起こす男だった。
「なんで倒れるまで頑張っちゃったのさ……!ていうかオイ!しっかしりろ!こんなところで倒れるな!」
「だ、だって」
息も絶え絶えにハックスが掠れた声で言う。
「これ、レンの、命の恩人なんだろ?……だったら、俺も、ちゃんと完食したくて……お、お前の人生、ちょっとでも多く知り…た……」
「う、うわーーーっ!アーミ、死ぬな!ラーメン食って死ぬなーーーーーー!!」
レンの悲痛な叫びも空しく、ハックスはがくりと項垂れると、そこで意識を手放してしまった。

§

その後の惨状について、レンはあまり語りたがらない。
ただ、気づけば自宅のソファに寝かされていたハックスが飛び起きるなり平謝りに謝ると、レンは大して怒っていなかった。
それどころか、恋人を抱き締めて延々と泣いた。
レンの感激の理由がわからずに困惑したハックスは、その後一ヶ月ほど、異様に優しかったという。

ちなみにハックスは、しばらくラーメンを食べたいとは言わなかったそうだ。

(おしまい)


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