花束(ブーケ)の食卓

 ホテルの白いバルコニーからは、豊かな水をたたえた湖がのぞめた。太陽が湖面にきらめく。どこまでも広がる草原はおだやかだ。レンは大きく深呼吸をする。清冽な朝の空気。この世の楽園のようだった。
 開け放った窓からさわやかな風が吹きこみ、薄いレースのカーテンを揺らす。射し込む朝日が、豪奢なスイートルームの窓辺に置かれた硝子製のテーブルにキラキラと反射し、その上にぞんざいに放置された大ぶりの花束を暖かく照らしていた。
 まっ白で艶やかなリボンをふんだんに使い、たっぷりとしたヴォリュームに仕立てられた花束は、白薔薇とカラーを中心に構成されていた。折り重なる華やかな純白の花弁たちと、それらを慎み深く彩る深緑の茎葉たち。なるほど、「純潔の花嫁」を連想させて相応しい。
 けれども、とレンは奥の部屋にちらりと目をやる。
 そこから見えるベッドと乱れたシーツとのコントラストは、むしろ情事を連想させる。なんだか可笑しいな、とレンはひとり微笑んだ。
 広い部屋の奥で、恋人が起き上がる気配がした。やがて、ベッドルームとリビングの境にある戸口に、くしゃくしゃの赤毛をゆらしながらハックスが姿を顕す。起きたばかりだというのに、かっちりとバスローブを着込んでいるのが、几帳面な彼らしい。
 バルコニーに立つレンを認めると、恋人は寝ぼけ眼の曖昧な笑みを浮かべながら近づいてきた。
「やっとお目覚めか、将軍」
「お前は早いな、最高指導者」
 かるい抱擁とおはようのキス。甘い空気に、二人の表情はゆるんだ。寝起き特有のふわふわと優しい表情を浮かべていたハックスは、しかしレンの視線の先にある花束を認めるなり、たちまちしかめっ面になった。
「まだ捨ててなかったのか。花は嫌いだと言ってたくせに」
 その口調にレンを責めるような響きを感じ、レンは、おやと思う。そう言えば、昨夜から彼の様子は少しおかしかった。
「べつに、取りたくて取ったわけじゃない。ただ、目の前に飛んできたから、反射で」
 昨日の結婚式の様子を思い浮かべ、レンは弁解する。言い訳がましくなるのは、心のどこかで花の美しさに魅せられていたからだろうか。花が嫌いだと言ったのは、昔の生活を思い出すからだ。だが、政治だか何だか知らないが、知人ですらない浮かれた中年男の結婚式に列席させられた挙げ句、「ブーケトス」とやらの標的になった屈辱を思えば、可憐な花束を持ち帰ることくらい許してくれてもいいだろう。
 そんな、不満と反抗の気持ちがないとも言えない。
「あの嫁、あからさまに俺めがけて投げてきただろう。受け取る以外になかった」
 俺のせいじゃない、と唇を尖らせるレンに、ハックスは鼻を鳴らす。
「フン。だけどお前、受け取ったあとで凄まじい仏頂面を晒したじゃないか。他の参列者たちの顔、凍りついてたぞ。あんなふうに戸惑わせるくらいなら、最初から避けろよ」
「なんだよ、やけに絡むな」
「別に」
 ハックスはそう言うと、ぷいと横を向き、バルコニー・テラスの柵に肘をついた。腕に顎を載せ、頬を膨らませんばかりにムスッとした顔をしている。
 そんなにブーケをキャッチしたことが嫌だったのか、といぶかしむレンは、その時ふとあることに思い当たった。
 ──もしかして、あのしきたりを気にしてるのか?
 もしそうなら、これは不安まじりの嫉妬か。まったく、珍しいこともあるものだ。
 長年彼と居続けたことで、ようやくレンもハックスの思考パターンに慣れてきた。鉄の将軍だの氷の男だのとご大層な二つ名で恐れられているこの男も、実のところはただの人間だ。感情も豊かで、意外と嫉妬深いし、失敗も多い。必死に隠そうとはしているが、レンの前ではその鉄壁ぶりもだいぶ緩む。
 ──嫉妬深いのは俺もだけど。しかし、かわいいな。
 むくれている歳上の男が愛らしくて、レンはククッと小さく笑い声を立てた。ハックスの肩がぴくりと動く。
「なにがおかしい!」
 憤然と反論する顔が、よけいに可笑しく、愛おしい。
「なあ。あれは旧共和国のしきたりだろ。俺たちはファースト・オーダーなんだ、関係ないさ」
「な、何の話だ」
 面食らった表情を見せるハックスに、レンはニヤリと笑ってみせる。
「安心しろ。いざとなったら、あんたとするから」
 そう言って、白いブーケを顎でしゃくる。
「するって、何を」
「結婚」
「な……!」
 当然のような口調で答えたレンに、ハックスは勢いよく向き直る。その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。何か言おうと開いた口を何も言えずに閉じ、また開く。彼がこんなに取り乱すことはめずらしい。よほど痛いところを突かれたと見える。ぱくぱくと音もなく動かす唇は魚のようで、レンは堪えきれずに噴き出した。ハックスの声が裏返る。
「ど、どこの、どこの組織に、くっつくNo.1とNo.2がいる……!」
「ここに」
「冗談じゃない!わ、私は御免だ!」
「“私”? そうか、それは“私”の意見か。ちなみに、“俺”はなんて言ってる?」
「!!」
 心に壁ができると一人称が切り替わる癖をからかわれ、ハックスは絶句する。
「う、うるさい、うるさい!」
 頭から湯気が立つほど怒り、躍起になって否定するハックスだったが、レンはいっこうに動じない。ただニヤニヤと眺めている。
「やめろ、なんだその目は! ……くそ、こんなものがあるから……ッ」
 普段とは立場が逆転した状況に焦ったのか、ハックスは忌々しそうに机上の花束を見遣る。
 そして、誰も予想し得なかった行動に出た。
 むんずと薔薇に手を伸ばし、一輪の花首をもぎ取ると──おもむろに口に入れた。
「お、おい、何を」
 仰天するレンを無視し、ハックスは意地になって口を動かす。目を白黒させながら、むしゃむしゃと白い薔薇を咀嚼する恋人を、レンは制止することすら忘れ呆気にとられて眺めた。
 やがて、ゴクリと白い喉が上下する。仕上げのように腕を組むと、ハックスはなぜか得意そうな顔をしてレンを見た。が、むりやり嚥下したせいで、その目は涙目だった。
「……マズい」
「あ、あんた、一体何考えてんだ?!」
 自分の突飛な行動にクールダウンしたのか、妙に落ち着いて冷静になったハックスとは対照的に、今さらのようにレンが慌てふためく。恋人は、なぜか困ったような顔をして頭を掻いた。
「いや、なんだか腹が立って、つい」
「ハアアア?! “つい”?! つい、で花を食うな!」
「どんなに美しくても、やはり食うものじゃないな」
「当たり前だろう……」
 気の抜けた答えに毒気を抜かれたレンは、力なくそう返した。他になんと言えばいいのだ。
「なあ、ハックス。俺が言うのもなんだが、あんた、俺に似てきてないか?」
「そうか? どの辺がだ」
 いかにも不本意だと言いたげな顔でハックスが問い返す。
「どの辺っていうか──そうだな、キレると何をしでかすか解らないなんて、昔のあんたじゃ想像もつかなかったじゃないか」
「ああ、まあ……夫婦は似るって言うしな」
「そんなところ似なくて良い──待った、今なんて言った?」
 聞き捨てならない言葉に、レンが目を剥く。
「あんた、今、夫婦って」
「ああ、そろそろ本物の朝食が食いたい。持って来させるか」
「オイ、誤魔化すなよ、オイってば」
「卵、俺はスクランブルエッグにするけど、お前どうする」
「ポーチドエッグ」
「やっぱりな。たまには違うもの食えよ」
「じゃなくて!」
「ああ、錠剤(タブレット)じゃなく、卵なんて野蛮なモノを食いたくなるのは、あきらかにお前の影響だな。いや、そもそも腹が減ったなんて思うようになったのも、大食漢の貴様のせいだ。レン、貴様、よくも俺を堕落させたな。責任を取れ」
「そうやっていっぱい喋れば、俺が黙ると思ってるんだろう! もうその手には乗らないからな!」
 口論しながら、二人は足は自然とベッドへ戻って行く。その様子は仲睦まじげで、どこからどう見ても幸せな恋人たちそのものだった。
寄り添う二つの後ろ姿が、やがてベッドルームに消える。あとには柔らかい朝陽と、無残に食い残された花束だけが残った。