燃える脚の寝室(一)

──俺は、娼婦ではない。
君にご執心の人物がいる。どうだ。
そう持ちかけられたとき、真っ先に心に浮かんだ言葉を口にする代わり、アーミテイジ・ハックスはただ聞こえぬふりをした。
馴染みの男は気づかなかった。
あいつ、君の顔に、身体に、全てにイカれていた。いや、そんな生易しいものではない、君という存在そのものに惚れ抜いていた。
どこか自慢げに、見も知らぬ他人が彼へ向けたという執着を語り続ける。その口調は、自分の持ち物を羨まれて得意げな子どものそれだ。止まることを知らぬおしゃべりと幼稚な自己愛が鬱陶しくなり、たまらず口を挟んだ。
「……気が進みません」
気怠げにシーツから裸身を起こし、くしゃくしゃになったシャツを羽織る。投げ遣りな答え。どうとでも取れる。しかし、目の前の男は、彼の答えに満足したようだった。
「ああ、そうだろうとも。君は娼婦ではないのだから」
──事と次第によっては、あてがおうとしていたくせに。
肚で嗤う。
金勘定と自尊心の天秤には、いつだって詐欺師の不実な指が載せられている。そんなことは、とうの昔に身を以て知っている。
今だってそうだ。
くすぐる自尊心を、用いる単語をひとつでも間違えば、瞬く間にこの「淫らな秘密の関係」の価値は目減りし、商材のひとつに成り果てていたはずだ。
とすれば、ビジネスの関係から湧いた愛着などという安っぽいストーリーにも、それなりの効能はあったわけだ。支配と被支配を下地とするロマンチックな嘘を望む相手には、特に。
侮蔑まじりの打算を押し隠し、とっておきの媚態を演じてみせるのも手慣れたものだ。
「下賜するを惜しむ程度には、価値がありますか、私にも」
拗ねるように言う。
つ、と喉をそらす。魚の腹のように生っ白い膚がのたうつ様が、よく見えるように。
身を翻す。なだらかな肩から滑り落ちるシャツを素早くつかまえ、釦を止める。上等な薄い布地が、身体の線を隠しつつも露にするのを見せつける。
褥から立ち上がった拍子に、なにも纏わぬ下肢の隙間から、先程の情交で消えた筈の残り香が再び立ちのぼる。チョコレートと薔薇の香水は、悪い冗談のように甘く匂った。
「おや、ご機嫌斜めか」
案の定、男の相好は崩れた。
「拗ねた顔も可愛い。おいで」
己とそう歳の変わらぬ優男は、庇護者気取りで両腕を広げてみせる。三文芝居に吐き気を催し、ハックスは内心で激しく毒づいた。
──何が、おいで、だ。情夫気取りの成金が。
腹に蟠る黒い屈辱を、糖衣のように愛らしいふくれ面に包む。
「知りません」
眉根を寄せ、顔を背ける可愛い我儘娘役。普段の将軍かれを知る者が見れば、卒倒するだろう。だが、この茶番のすべてが莫大な金を産む。金は、組織の血液だ。可愛い我が子を生かすためなら、己の屈辱など取るに足りない。
「もう、帰ります」
「このまま帰したら、きっと君はもう僕と会ってくれないだろう」
「馬鹿なことを──離してください」
「そう言って、煽る」
押し付けられる唇を、渋々受け入れる。だがこれだけで満足すればいいものを、男は執拗く求めることをやめようとはしなかった。不粋に猛り、迫る肉を軽く押し戻しながら、ハックスは泥のような疲労を覚え始めていた。
──この男も、潮時かもしれない。
商売を忘れ、茶番にうつつを抜かし始めた金蔓は厄介だ。そろそろ次を探さなくては。
彼の打算を知ってか知らずか、男は困ったように音を上げた。
「参ったな。どうしたら機嫌を直してくれるんだ」
「それなら、もっと褒めて下さい」
「君への賞賛を惜しんだことなどない」
「貴方の言葉じゃない。それはもう聞き飽きました。そうだな──その、私に執着する愚か者とやらの言葉を知りたい。教えてください、そいつはどんなふうに私を愛でたんです」
「一人の愛だけでは足りない、ということか。欲張りだな」
つまらぬ台詞の応酬に辟易しながら艶然と微笑み、腕の抵抗を解く。撓垂れ掛るよう男に身を任せた。
「一体、どこの誰なんです、その道化」
待っていたといわんばかりに食らいつくぬくい頭蓋を掻き抱き、ハックスはその耳元に毒を流し込む。
男は呆けた笑みを浮かべ、あっさりとその名を明かした。
どんな経緯でハックスを見初め、どんなふうに凝視し、どんな言葉で賞賛し、欲したか。吐いた賛辞の数々すらもペラペラと口にした。
口にするうち、秘密の愛人を羨望される心地よさに酔いでもしたのか、やがて男は異様に昂りだした。情熱的に抱き寄せられた男の胸で、ハックスは短剣のような笑みを浮かべた。


(第一話・了)

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