UFO

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その日、めずらしく早い時間に退社してきたアーミの機嫌は、あまりよくなかった。
帰宅するなり、俺がリビングのあちこちに置きっぱなしにしている読みさしの小説を憮然とした顔で片付け始めたとき、正直俺は、「あ、ヤバイ」と思った。
そういえば昨夜、「アイロンをかけるつもりで積んでいる洗濯物をいいかげんどうにかしろ」と言われたことを思いだす。
──俺、片付けてないよな。アレ。……うん。片付けてない。
二人の寝室の隅に小山のように盛り上がってる“俺ゾーン”を思い出し、俺は首を竦める。
直後、アーミテイジが刺々しい声で言うのが聞こえた。
「いいかげん『Division』とか『Farcry5』しまえよ。もう殆どやってないだろ?」
ったく、お前はいっつも……と、文句たらたらの彼は、俺が乱雑に積み上げたゲームソフトを次々に回収していく。
帰宅前にアパートメントのプールに寄ったらしく、彼の赤毛はまだ濡れていた。プールに行くなんて、ストレスが溜まっている証拠だ。その身に纏った空気が不穏にピリピリと揺れている。
──や、やばい!
これは、八割方、俺が悪い。
悪いとわかっているのに、彼の手に収まったあるタイトルを見て、俺は思わず声を上げた。
「あ、『No Man’s Sky』はダメ!アプデ入ってから地味に遊び続けて──」
言いながら、あー何言ってんだ俺、と後悔する。言い終わるか終わらないかのうちに、案の定俺の言葉はアーミの大音声の叱責にかき消された。
「あのなあ!もうスペースが限界なの!少しは片付けろ!!」
たしかに、テレビ画面の下5センチ程度が、俺の積み上げたゲームソフトで満遍なく見えなくなっている。最近では二人で映画を観ようとするたび、アーミがぶつぶつ文句を言いながらソフトの山を下に下ろす有様だった。
「ご、ごめんなさい!」
こういうときは、素直に謝るにかぎる。あわててアーミに走り寄り、俺は彼が両腕に抱えているゲームたちを引き取った。
「あとは俺がやります!」
良いお返事と、迅速な行動。
これも大事だ。
アーミを見つめると、彼は半目でジトっと俺を見つめ返してきた。
ここで視線を逸らしてはいけない。申し訳ないと思っている、という表情を大袈裟なまでに浮かべて、目をうるうると潤ませる。
10秒ほど見つめ合ったのち、アーミはやがて諦めたように視線をそらした。
はーっと大きく溜息をつく。
「……はやく、やれ」
「はいっ!」
んもー、とぷりぷり怒ったふうではあるが、頭をかきかきキッチンに消えていく彼の背中からは、激怒の気配は消えていた。
続いてかちゃかちゃと珈琲ミルを準備する音が聞こえ、俺はようやく安堵の息を漏らす。
──ヨシ。最大火力の雷はこれで回避できた。珈琲淹れてくれたら手打ちだな。
あとは彼の機嫌がひっくり返らないうちに、片付けを済ましてしまうことだ。
俺は大車輪で片付けを開始した。

§

よくもまあこんなに積んだなという量の小説や雑誌を自分の部屋に押し込み、大量のゲームソフトは二人の寝室のゲーム棚へ戻す。
しかし1セットだけ、アーミ個人の私物であるゲームソフトが見つかった。
本来であれば彼に渡すべきだが、状況が状況だけに「これアーミのだろ」の一言が恐ろしかった。
キッチンを見る。
彼は、珈琲を手淹れしてくれていた。香ばしい、良い匂いが漂ってくる。
マグが二人分用意されているのを見て、俺の口もとは綻んだ。アーミの機嫌は、だいぶ持ち直している。
──ここで危ない橋を渡るのはよそう。

普段なら、俺たちは互いの部屋に踏み入ることは稀だ。
まったく、運命の悪戯とは恐ろしい。

§

アーミテイジの部屋は、きちんと整頓され、しんとした空気に満ちていた。
仕事部屋として使っている俺の部屋とは違い、彼の個室はほとんど使われていない。
いっしょに暮らしているくせに、ここに来るとなんだかどきどきする。
俺は、壁一面の本棚を見あげた。
「えーと、ダークソウル3の通常版はトリロジーボックスの横、かな……?」
きれいに揃ったゲームソフトの背ラベル達のなかに、ひとつだけぽっかりと空いた箇所を見つけ、俺はそこにソフトを差した。
俺の任務は完了、するはずだった。

部屋を出ようと踵を返した俺は、運悪くなにかにぶつかった。
本当に運が悪かっただけなんだ。
信じてほしい。

ただ、とにかく、俺はそのせいで、無造作に置かれていた箱をひっくり返してしまった。
何の変哲もない、コンバースの箱だった。
スニーカーの空き箱を整理用のケースとして使う、よくあることだ。
「うお、やっべ」
ごとりという音がして、箱の中身が床に散らばる。
「あー、あー、また叱られ……」
床に散らばったものが目に入る。目に痛いほどの極彩色だった。
最初、キャンディかな、と思った。だって、ジップロックの袋に、ひとつひとつ丁寧に個別に入れられていたから。かわいらしい、夢一杯のロリポップとか、その類を保管してるのかな、と。
──でも、なんでキャンディがこんなところに?
うち一つは、ジップが外れて透明な袋から半分ほど中身が出てしまっていた。もしキャンディなら早く戻さなきゃ。そう思いながら正体不明のソレに手を伸ばそうとして、つづいて認識されたもの。
それは、見慣れてはいるが、なんとも場違いなもの──大量のコンドームだった。ついでに、ジェルとウェットティッシュ。
「……え?」

アーミに複数のセフレがいることが発覚して、大もめに揉めたのはたった数ヶ月前のことで、未だ記憶に新しい。
彼の誠実さを信じてないわけじゃないが、アーミの性に対する奔放さは、俺の理解が及ばないと思い知らされた事件でもあった。
だから、そのとき俺の頭をよぎったのが「ちょっと待って、また?」だったのを許してほしい。
信じてないわけじゃない。が、“有り得ない”話じゃない、と思ったのだ。

「おい、嘘だろ?」
刺々しい言葉が口をついて出る。
つづいて怒りが兆し、極彩色のロリポップをむんずと掴んだ、その瞬間。
衝撃が走った。
──飴じゃない!
シリコンの感触にハッとして、目の前に散らばる棒状のモノ達を見る。
サイズは桁外れだし、色指定を間違ったのかとおもうほどサイケデリックな彩色ではあるが……。
──アレじゃないか……!
つまり、その。
俺がぶちまけたのは、計5本の極太&極彩色のディルドだったわけだ。
コブだらけだったり段々が付いていたりと、どいつもこいつも凶悪なご面相をしている。この時点で、すでにあまりにも唐突な成り行きと情報量の多さで、俺の脳は現実を捌ききれなくなっていた。だから、ダメ押しのように、ふと自分の手が掴んだままのモノに目が行った瞬間、その働きを停止したのも、当然だろう。
他のものは、それでもまあチンコの形状は保ってはいた。
しかし、俺の手に握られたソレは。

「どう見ても、イカ」

(吸盤ついてる)(クソデカイ)(ファンシーな蛍光ピンクとパープルのマーブル)(カワイイか)(尖ってない?)(痛くねえの?)(湾曲しすぎでは)(こういうのも入るのか人体は)

人は、未知のモノに恐怖を抱くという。
そのとき俺に引き起こされたのも、恐怖だったのだろうか。
わからない。

俺は絶叫した。


§

絹を裂くような悲鳴、とはあのことだろう。
レンの悲鳴が聞こえたときは、俺は肝を潰した。

その日、めずらしく仕事を早めに終えたのには理由があった。
いらいらしているな、とは自覚していたから、まずはプールに寄った。けれど半端な運動では、苛立ちは消えなかった。
俺は、自他共に認める几帳面だ。
片付かない空間が死ぬほど嫌いだ。
しかし最近、レンのヤツは、片付けに関する約束をまったくといっていいほど守らなくなってていた。同棲を始めた頃に決めたルールは、もはやないも同然だ。
いや、それでも、ゲームソフトを積み上げるだけならまだいい。長年一緒に暮らしていれば、ある程度は慣れてくる。
ただ、映画でも見るかとなったとき、積み上がったソフトをのけるのは俺だ。あいつは何もせずにぼーっと座っているだけ。
あるいは、寝室の片隅に積み上がった洗濯物には、埃が積もり始めている。それを見るのも嫌なのに、最近では領土が拡大しすぎて俺のクローゼット前にまで進出し、毎朝シャツを取り出すのにも一苦労だ。それをあいつは、いつもぼやっと見ている。
我慢の限界だった。
今日という今日は一発カマしてやる。

そう意気込んで乗り込んではみたものの、結果は芳しくなかった。
いい加減にしろ、と怒りを爆発させようとした矢先、レンは卑怯にも「ごめんなさい反省してるから怒らないでください怖いよう悲しいよう」みたいな、あのクソ可愛いウルウルした瞳で見つめてきやがった。
結果、強くも出られず、俺は振り上げた拳を所在なく下げ、こうして珈琲を淹れている。
どうしてこう、ヤツに甘いんだ、俺は。
苛立ち半分、惚気半分のおさまりのつかない気持ちを落ち着かせようと、珈琲ミルをごりごりと回す。
ヤツはわざとらしく大張り切りで片付けを始めている。
──ま、まあ、片付けば、ヨシ。
目的はそれだ。
だからもう蒸し返すまい、と自分を諫めていると、件の叫び声が聞こえたのだった。

§

大慌てで駆けつけた俺がまっさきに認識したのは、尻餅をついて半べそになっているレンだった。
どうした、怪我でもしたかと焦ったのも束の間、床に散らばったモノが目に入る。そして、レンの手に握り締められた……

──俺の、イカ。

血の気が引いた。
レンが「だ、ダクソのFire Fades Editionが、ダクソの、ダクソ」と譫言のようにつぶやいていたが、翳りそうなのは火ではなくて俺の精神だ。自分の暗い魂が身体から抜け出て、部屋の天井あたりにまで浮遊していく。
恐らく「何してんだお前!!!!!」と怒鳴りつけたい自分を抑えられたのは、に「性に奔放なアーミテイジ」のイメージを崩すわけにはいかない、という、俺のくだらないプライドのおかげだろう。
スッと無表情になる。
自分でもおどろくほど、冷静に、頭の中がクリアになっていくのがわかった。
何が起きたかは大体想像がついた。
レンこいつが何を勘違いしているかも。
「……見たな」
わざと低い声でそう言うと、レンがヒィ、と頬を引き攣らせた。
「ああああのあのあの違うんですこれにはワケが」
「俺の可愛いコレクションに何をする」
「これくしょん」
「異形ディルドちゃん達だよ。はやく戻せ。それとか」
と、レンの手に握られている愛しいイカを指さす。
レンはギャッと叫んで“彼”を放り出した。なんてことを。
「……結構高価いんだぞ。オーダーメイドなんだから」
「おーだー」
「ああ、もう」
オウム返しするばかりの彼に業を煮やし、俺は傍に屈み込むと、散乱した己の性具を片付け始めた。
レンがキャーと小さく悲鳴をあげ、いささかムッとする。
人の部屋に入ってきたあげくささやかなお楽しみグッズをぶちまけておいて、何がキャーだこいつは。自分だって普段えげつないことされて大悦びしてるくせに。
「キャーってお前、失礼だろうが!」
「あ、ご、ごめん!あの、本当に、本当にごめん!!あの、俺、ダクソを……」
「いやもう、ダクソはわかったって。悪かったよ、俺の片しに来てくれたんだろ?」
「う、うん……」
しょげ返るレンの表情からは、心底すまないと思っていることが見て取れた。
俺の機嫌を損ねたくない一心で、私物まで片付けさせてしまったのは、たしかに俺の否だ。そこを責めるつもりはない。そう告げると、レンの眉はさらに下がった。耳が生えていたらぺったり頭についていただろうな、となんとなく思う。
ダメ押しのようにごめんなさいとつぶやくと、レンは困ったようにコンバースの箱を見遣った。
「あ、あの、これ」
その口調には、かすかにおびえが混じっている。
──やっぱりか。
また浮気(っていうか、レン以外とヤることを)を疑われているらしい。ちょっと傷つくが、まあ仕方ない。
「……お前が想像してるような使い方は、してない」
「!」
目を丸くする彼を見て、やはり図星だったか、と溜息をつく。
「こないだのこともあるし、信用できない気持ちはわかる。けど、さすがに俺だってそこまで不誠実じゃないぞ」
口を尖らせて抗議すると、レンの表情が目に見えてわかるほどに弛緩した。
まったく、わかりやすいヤツ。
「え、じゃ、じゃあ、これって」
「俺のだよ。俺が、自分に使うの」
「…………えっ?ええっ?」
「だから!お前だってオナニーくらいするだろうが!」
「あ、あああああ?!ああ?!そういう???ことですか?!!???」
絶叫したレンの目が、面白いほどにぐるぐると回った。ようやく自分がやらかした惨事の正体に気づき始めたらしい。
彼が頬を段々に紅潮させていく様を見て、俺まで今さらのように恥ずかさが込み上げてくる。
クソ、これ以上追及してきたら、「お前、仕事部屋のあっちこっちにkylux(将軍ボトム)の同人誌大量に隠してるよな」という隠し球を放ってやるからな、と心に誓う。
「──さすがにこういうモンは共有しないからな。欲しかったら自分で買え。アドバイスはくれてやる」
「大丈夫です結構です」
形容しがたい凄まじい形相でレンはそう言い、マジすんませんした!とやたら男らしい一声を叫ぶと、逃げるように俺の部屋から出て行った。
少し前屈みになっていた。
──マジかよ。
あいつ、本当に俺のこと好きだな、と俺は他人事のように感慨深くその背を見送った。

§

部屋を片付けてリビングに戻ると、ヤツの姿は当然のごとくなかった。
俺は黙って珈琲を淹れ直す。
しばらくして、何食わぬ顔をしてトイレから出てきやがったヤツは、もう一言もさっきのことには触れなかった。俺も同様だ。
二人して、全部忘れたような顔をして珈琲を飲んで、Netflixで適当なドキュメンタリーを見た。
夜、セックスはしなかった。

§

翌朝、レンは熱を出して寝込んだ。
責任を感じて「仕事休んで看病しようか?」と聞く俺に、彼は「風邪ですお気遣いなく移してしまうので来てはいけません」と様子のおかしな目で告げると、パタンと寝室の扉を閉ざしてしまった。
居間に置き去りにされたiPadの検索履歴には、しっかり「異形ディルド」のワードが残っていた。
まったく、詰めの甘いヤツだ。
ページ履歴からするに、俺が所持しているモノが、馬だのティラノサウルスだのドラゴンだのイカだの、ということを突き止めてしまったらしい。
別に、知られるのはいっこうに構わない。
のだが。
──なんだかまだ、一波乱ある気がしてならない。
腹のあたりに溜まる「ぼんやりとした不安」に、俺は眉を顰める。
──ああ、クソ!なんでこの歳になって、こんな下らんことで心を乱されなきゃならない!

しばらくあいつの頭を占拠しているであろう「俺の一人遊び」のことを考え、俺はオフィスの椅子の背を反らす。
そして、その日何度目になるかわからない、大きな大きな溜息をついた。


(おわり)


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