真冬のダンス

  敷き詰められた鼠色の雲のすきまから、ちらちらと白い雪が舞い落ちる。
 真冬の午前五時は、まだ暗い。
 ――クレイトンの冬を見るのも、これが最後だな。
 生まれ育った灰色の町並みをながめながら、ベンはぼんやり考える。早朝のバス停に人影はない。道路につもった大量の雪のほかには、本当に何もない町だ。
 ――何もないのは、俺も同じか。
 ドクターの診療所につながる十字路をちらりと盗み見て、すぐに目をそらす。涙はもう出なかった。涙どころか、すべての感情が体からすっぽり抜け落ちてしまったように何も感じない。ただ、呼吸する肺がやけに重苦しくて、耳の下あたりがひきつれたみたいに痛かった。
 ずっと座っているせいで冷えきった頬を、青いニット手袋をはめた両手で包みこみながら、膝の上にのせたドラムバッグに頬杖をつく。ほう、とついたため息はまっしろだ。
 ――俺がしたことといえば、ぜんぶ壊してしまうことだけだったな。
 淡々とそんなことを思う。なに不自由なく生きられるだけの富も、両親からの惜しみない愛も、たっぷりと与えられて育った。けれど、自分の中を覗きこんでみたところで、そこにあるのはがらんどうの心だけ。すべてを食い尽くす、からっぽのモンスター。
 ――俺は、できそこないなんだ。
 ぎゅ、とてのひらを握りこめば、ニットごしにも爪がくいこむ。
 そして、そのできそこないは今、すべてをうっちゃって逃げ出そうとしている。親も、故郷も捨てて。友だちなんか最初からいない場所だ。だいすきな人は死んだ。自分のせいで。この町にはもう用がない。ひとごろしの怪物が、いていい場所でもない。
 だから、二度と戻らない。
 目の前に、雑なエンジン音をあげて、大きな黄色いバスが到着した。耳ざわりなでかいブザーとともに扉が開く。眠そうな目をした無愛想な運転手が、無感動にベンを見た。
 ――俺は、俺をやめる。もう誰とも関わらない。
 バックミラーに映った自分をにらみつけ、ベンはバスのステップを踏んだ。

 あの日と同じような灰色の空に、ちらちらと雪が舞っている。
 そっと腕を伸ばして、てのひらを空にかざす。肌に落ちた雪は、すぐにとけて消えた。
「レン」
 思いきり身体を仰け反らせて、大きく口を開ける。こんな粉雪では食べられないか、と思いつつ、ひんやりした外気が体内に取り込まれていくのが心地よい。
「おい、レン!」
 目を閉じて息をすいこむ。ぬれたコンクリートのにおい。雪のにおい。排気ガスのにおい。遠くから近づいてくる、やさしいアンバーの香水と、微かだけれど香ばしい珈琲の……
「レンってば! 熱い! ヤケドする! はやく受けとれって、このバカ!」
「わっごめん」
 すぐそばでアーミテイジのがなり声が聞こえ、レンは我にかえる。あわてて体勢を立て直して振り向くと、黒い細身のコートに身を包んだ恋人が、スターバックスのコーヒー二つを手になにごとかわめき散らしていた。促されるまま、緑色のスリーブが巻かれたプラスチック容器一つを受け取る。と、あまりの熱さに取り落としそうになる。
「熱っち! なんだコレ」
「バッカお前、だから気をつけろって」
 ようやく解放された片方の手をぶんぶんと振りながら、アーミテイジが呆れたように言う。
「いやいや、熱すぎるでしょ」
 あちあちと右に左にと持つ手を変えながら、レンはアーミテイジに文句を言った。
「これ、ほんとに飲めるのか?」
「エクストラ・ホットが良いって言ったのはお前だろうが」
「アーミがしつこくすすめるからだろ」
「俺のせいにする気か?」
 半目になりながら、ずず、と珈琲をすするアーミテイジの鼻先が真っ赤だ。思わずくすりと笑うと、彼も何だよ、と笑いながら頭突きをかましてきた。
 溶けた雪が水滴の粒となって赤毛にきらきらと散っているのに見とれる。思わず手を伸ばしてくしゃりとかき回すと、アーミテイジの体温が冷えきったレンの手をやさしく包んだ。
「つめてえよ」
 まだ笑いながら抗議する恋人は、それでもその手をどけようとはしない。されるがまま、レンの手の感触を楽しんでいるようでさえある。
「レン、鼻まっかだぞ」
「アーミもね」
「お前のふるさとがこんなド田舎だって知ってたら、もっと着込んで来てたよ」
「嘘だね。何度も注意したよ、俺」
「おぼえてない」
「聞いてない、のまちがいだろ」
 憎まれ口の応酬が、不意に途切れた。
 あの日乗った黄色いバスが、傍らを通りすぎる。あの日と同じように雑なエンジンを響かせる後ろ姿を見送り、レンは独り言のようにつぶやく。
「……ぜんぜん変わってないんだな」
 そんなレンを少し気がかりそうに見ていたアーミテイジだったが、やがて労るような声を掛けた。
「なあ、無理しなくていいんだぞ。帰りたいなら俺はいっこうに――」
「大丈夫」
 しかし、レンはきっぱりとした口調でそう告げる。
「ありがとう。大丈夫だよ」
「そうか。それならいいが……」
 なおも心配そうなアーミテイジに、レンはニカッと大きく笑ってみせた。
「だって、アーミがいるからね」
 そう言いながら、珈琲をすするアーミテイジの頬に大きく音を立ててキスをする。彼が思わず噎(む)せるのを見て、レンはさらに笑った。
「ほんとに大丈夫かよ、お前。酔ってんじゃないだろうな」
 アーミテイジもつられて苦笑しながら、レンの方に手を差し伸べてきた。その手をしっかりと掴み、横に並んで歩く。
「んじゃま、二人仲良く地獄巡りと行きますか」
「うん!」
「……いや、ほんと心配だわそのテンション……」
 ぼやく恋人の手を、レンはぎゅっと握りしめる。ここにいるからな、と答えるかのごとく強く握りかえすアーミテイジの体温が、レンの心を満たしていく。
 ――今の俺は、最強の俺だ。大丈夫。どこへだって行ける。
 灰色の懐かしい町並みに向かって、レンとアーミテイジは並んで歩き出す。
 いつのまにか雪はやんでいた。
 真冬のクレイトンの午後は、やわらかな太陽の光に包まれ、静かに二人を迎えた。