バビロンまであと……

  鈍い頭痛とともに目を開ける。
 見慣れない天井に戸惑いながら、そっと身を起こしてみる。薄暗く、窓のない部屋。センスの悪い間接照明のなか、ぼんやりと浮かび上がる安っぽいソファとローテーブル。ふと手元に意識を戻せば、これまた安っぽいシーツの感触。見覚えのないベッド。
 俺のシャツの前ははだけ、下はベルトが外れてはいるが、昨夜のスーツのままだ。
 こ、これは。
 ──どう見ても、ラブホ、だよな。
 バッと音を立てそうな勢いで、俺は慌てて自分の隣を確認した。
「げ、レン」
 全裸の下半身にシーツを巻きつけるようにして寝ているのは、お馴染みの大男。彼の名前が浮かんだとたん、脳裏には閃光のように昨夜の記憶がフラッシュバックした。
 ──そうだ、俺、レンと久々に飲み歩いて……。
 断片的にではあるが、光景を覚えている。そう、たしか最後のSFバーで急に酔いが回り、レンに「家に帰りたい」と伝えたつもりが──

『レン、おれ、かえら(れ)ない。(自分の家で)寝たい。いますぐ(帰宅)したい、レン、はやく(連れて帰れ、寝るのを)がまんできない』

「ン゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
 俺は頭を掻きむしった。
 へべれけになっていた時の言葉を、人間は把握していないのかというと、実はそうでもないらしい。きちんと記憶されているのだから不思議なものだ。
 いっそ忘れてくれれば楽なのに。
 しかし、思い出してしまったものは仕方ない。仕方ないどころか、律儀な俺の脳は頼んでもいないのに芋蔓式に己の昨夜の行動を再生し始めた。
 ──そうだ、しかもそのあと、着いたのがラブホだって気づいたのに……。
 そう、酔っているとは言ったって、それなりに理性はあった。だから、レンがフロントでもだもだと部屋を選んでいるときに「あれ?」とは思ったんだ。
 でも、俺は。

(ま、いっか)

  そう結論付けた。
 ヤるならヤるでいいのでは? みたいなノリだ。で、エレベーターに乗りながら、レンに延々と絡んだ。

『ラブホにくるなんて、レンくんのえっち』
『……へ? ちょ、待った! 俺、もしかして何か勘違いしたか? あんた──』
『まーたまた、そんなこといっちゃってぇ、このぉ』
『いやいやいや、ご、ごめん! ……帰るか?』
『ばか! やだ!』
『やだって、そんな……』
『もう入っちゃったもんはしょーがないだろ? なに、それともレンくんは、アーミテイジくんとヤりたくないのか? んん?』
『い、いや、そりゃ……ヤりたい、けど……』

  さらに、部屋に入るなり俺からレンにベロチューをかましたのも何となく覚えている。
 何故ならあいつの唇からバニラアイスの味がして、それが美味しくて思わず舐め回し、唇を舐め尽くしても物足りなくて、彼の舌を引っ張り出して、更にその奥まで……。
 ──ああ、も、もう、さいあく……。
 俺は頭を抱えてうずくまる。

『きょうは俺、酔っぱらいだから勃たないからな?』
『は? え?』
『ん? てことはぁ?』
『え、えと……え、マジ?』
『んふふふふふ』

  ベッドのすぐ脇で交わしたアホみたいな会話が再生されるにいたって、俺はとうとう恥ずかしさのあまり自らの首を絞めた。
 ──なんでそんなこと言ったんだ、俺……!
 なんで?
 そんなのわかりきってる。
 そう、レンが俺に夢中になっていく、そのとろんとした視線が心地よくて、嬉しくて、かわいくて。
 何をこだわることがあるんだ。酔ってる今なら、それを言い訳に俺がボトムになったっていいだろ。だって俺、本当のところはどっちだって……
「オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」
 思い出したくない自分の「本音」まで思い出してしまい、押し殺した悲鳴がこみあげた。
 馬鹿! アーミテイジのクソ馬鹿!
 なに素直になってんだよ、お前のキャラじゃないだろうが!!
 酔った自分のガードが甘いのは重々承知しているが、まさかレン相手だとここまで色々と駄々もれになるとは。自分でも意外だ。
 だが、そこからの記憶は一気に曖昧になっていった。
 けっきょくのところ、肌を撫で回すレンの手があったかくて、最初は性的に気持ち良かったのが段々精神的に気持ち良くなってきて、なんだか安心してきて、そして俺は。
 寝落ちした。
 んだろうな、多分。
「げ、外道だ……」
 誘うだけ誘っておいて、寝た。どう考えても鬼畜の所業だ。
 ダメだろこれ。どうしよう。ごめんね☆で済まされるだろうか、済まされないよな。
 煩悶しながらおそるおそるそっとゴミ箱を覗くと、
 ──やっぱりある……。
 使用済みティッシュ、しかも結構な回数分。
 こういう痕跡隠しきれないところが詰めが甘いんだよなレン、とちらりと思いつつ、自分の犯した罪の重さに耐えきれず、俺は背中を丸めてゴソゴソとベッドを降りた。
 その足でバスルームを覗きに行ったが、使われた形跡はない。とすると、恐らく俺がレンにしがみついて寝たか何かしたせいで、あいつは動けなかったんだろう。かと言ってひっついてくる俺への欲求には抗えず(そりゃあそうだろう、自慢じゃないが酔ってる俺は普段の百倍かわいい)、一人で処理して寝た、と。

  申し訳なさに腹でも切ろうかと落ち込みながら、ふたたびベッドに戻る。
 眉をしかめて眠るレンが上掛けにしているシーツを、そっと剥いでみた。
 ものの見事に元気だった。
 ──も、もう、いっそのことお目覚めフェラとかしちゃう……?
 AVかよと思わないでもないが、もはやそれくらいしないと許されない状況なのでは……。
 真剣に五分くらい思い悩み、えーい面倒くさい、咥えちまえ!と彼に手を伸ばそうとした瞬間、
「ん……あれ、ハックス……?」
 件の本体がむくりと身を起こした。
「あ、レン。おはよう」
 慌ててさっと手を引っ込めて愛想笑いを浮かべる俺に、
「おはよ。いつから起きてた? ……ていうか、何してんだ……?」
 レンは目を擦りながら訝しそうに問いかける。
 そりゃあそうだろう。起きたら昨夜のトラブルの元凶が自分の上に跨がってるんだ、警戒して当然だ。
「えっと、その、ぬ、抜いとく……かなって……?」
 へらりと笑って立派な朝勃ちを指差すと、レンは慌てたように自分のブツを両手で庇うようにして覆い隠した。
「な、何言ってんだあんた?! 頭でも打ったか?」
「いや、だって、その」
 さすがに許されないことをしましたし。
 モゴモゴと口ごもる俺を、レンは呆れたように眺める。やがて困ったように笑いながら俺を押し退けると、かるく額にキスをくれた。普段ならやめろ、ふざけるなと押し返すところだが、今朝はそういう訳にも行かない。
「こんなん、放っとけば戻る。……それより平気か? 頭とか痛くないか?」
「いや、それは平気だけど、でも」
「そっか。二日酔いになるんじゃないかって心配してたんだ。──なら、良かった」
 思いもかけない優しい言葉に、俺は目をぱちくりさせた。
「怒ってないのか?」
「怒ってない。酔っぱらいのあんた、可愛かったし」
「お、おう……」
 さすがのレンでもキレるだろうと思い込んでいただけに拍子抜けする。と同時に、妙にどぎまぎしてきて、俺はきょろきょろと視線を宙に泳がせた。
 こいつといると、いつも調子が狂う。
「あ、スーツ、ごめん。皺になるし、脱がそうかとも思ったんだけど、さすがに理性飛びそうで──」
「レン」
 照れ笑いする彼を遮るように、俺はレンの唇を塞いだ。
 ヤツがしゃあしゃあと性欲に打ち克っているのがなんだか悔しかったからであって、決して好きという気持ちが溢れたからとかではない。断じて、ない。
「……ヤってから帰るか?」
 軽いキスだったのに、そして、ほんのちょっとの時間だったのに、気がつけば互いを抱き締める腕にやけに熱が籠ってしまって、俺は唇を離すと囁くようにレンに問いかけた。
 さっき確認したレシートでは、退出までにあと二時間ほどあったはずだ。
「……あんたは? したいのか?」
「う」
 正直言って、その欲望はあった。でも──。
 ──今ヤるのは、嫌だ。
 そう思った。意味がわからない。何がしたいのか自分でもよくわからなくて、俺は言葉を失う。
 自分の感情に戸惑う俺を見ていたレンは、
「無理にすることないよ。俺、あんたといられれば、それでいいから」
 くすりと笑い、続けて「あれ? 俺のパンツどこ?」と間の抜けた声をあげた。
 心がふわりと浮き上がる。
 なんだよ、それ。
 なに余裕こいてんだよ、レンのくせに。
 これじゃ、いつもと立場が逆転してるじゃないか。
 泣き出したいような、笑い出したいような、妙な高揚で身体が固まる。
 俺は泣き笑いのような表情をして、レンの髪の毛を悔し紛れにぐしゃぐしゃにした。

 けっきょく、互いの中途半端な欲望を持て余したまま、俺たちは言葉少なに身支度をととのえ、時間より早くホテルをチェックアウトした。
 薄暗いホテルのエントランスを出ると、晴れ渡った青空が俺たちを出迎えた。
 朝の新宿の裏通りは、なんだか世間に取り残されたみたいに静かで、のどかだった。
 無言で目の前をのしのしと歩く、大きなレンの背中をじっと見つめる。不意に、こいつは俺のことが好きなんだなあと思った。
 ──よく考えれば、ラブホ入ってヤらずに出てきた男って、こいつだけだな。
 そう思い当たったとたん、涙が溢れそうになる。俺は、先を歩くレンの手を掴み、きゅっと握った。
「え、なに、急に」
 驚いたレンが俺を振り返る。
「いや、別に」
 気恥ずかしくて彼の顔が見られないのを気取られないように、俺はそっぽを向いてなんてことないフリをする。誤魔化せているとは、自分でも思っていなかったが。
「なんとなくだよ。悪いか」
「……いいのか?」
 いつもは人に見られるの嫌がるだろ、と、レンは嬉しさをにじませながらも不審そうな顔をしている。
「なんだよ、不満か?」
「イエ、ウレシイデスケド」
 彼の耳は真っ赤だ。たったこれしきのことで照れる、純情でいかつい大男。童貞くさいとからかってもいいのだが、その優しさが妙にまぶしい。
「べつに、人に見られるなんて、大したことないな」
 俺、なに気にしてたんだろ。
 そうつぶやくと、レンの肩がぴくりと動いた。心なしか、俺の手を握る彼の力が強くなったような気がした。
「ハックス」
「なんだ」
「俺、腹減っちゃった。なんか食わない?」
「ああ、そうだな……あ、ロイホ」
「うわ、久しぶり。入ろ、入ろ」
「よっしゃ、俺パンケーキ食う」
「……また甘いもの食うの?」
「お前はラーメン食えば?」
「さすがにないわ……」
 下らない会話を続けながら、俺たちは朝の街を歩いて行った。
 手を繋いで。
 二人で。