ハナウタ

バックミラー越しに、車の後部座席に座る恋人を盗み見る。眠っているのか、目を閉じたまま彼は微動だにしない。
彼から電話があったのは、二一時すぎだった。
今日は会社のパーティーで遅くなるからと聞いていたので、もしかして早く終わったのかなと少しだけ期待して出てみれば、酔って歩くのもつらいので車で迎えに来てくれないかと言う。
仕事で彼が酔うなんてあり得ないし、かりに酔ったとしても、いつもならタクシーで帰ってくる。変だなとは思ったが、電話口の声はひどく疲弊しているようで、なんだか胸騒ぎがして、取るものもとりあえず部屋を飛び出した。
車を走らせて五分くらいしてから、もう少しきちんとした格好をしてくれば良かったかと気づいた。部屋着に上着一枚を羽織っただけでは、さすがにまずい。けれど今さら戻るわけにも行かず、モヤモヤした気分のまま、とにかくオフィスに急いだ。

彼の勤める会社が入っているビルは、何から何まで洗練されたモダンなデザインで統一されている。テナントの飯屋はどこも量がちょこっとで、バカみたいに値段が高く、そしてすぐに入れ替わる。そういう場所だ。俺は大嫌いだった。
だだっ広い気取ったエントランスは、時間のせいかさすがに人気がなかった。が、相も変わらず隅から隅までピカピカしていて嘘くさかった。
しゃっちょこばった顔つきの受付の警備員に、もたもたとパートナー用の入館証を提示していると
「レン!」
聞きなれた声がした。
アーミテイジが社員用のゲートを通って出てくるところだった。
「アーミ」
手をあげて応える。ビルの内部まで入らなくて済んだことにひとまずホッとした。
アーミテイジは酔ったというわりにはしっかりした足取りをしていたが、申し訳なさそうな表情を浮かべたその姿は、いつもと違ってなんだか弱々しいオーラを放っているように見えた。
「悪いな、呼び出したりして」
「それはいいけど、大丈夫?なんかあったのか?」
「いや、ただちょっと──」
「おや、もしかして」
アーミテイジの言葉をさえぎるように、背後から大きく呼び掛ける声があった。
見れば、ゲート奥の階段上に、社員とおぼしき男性がこちらに向かってにこやかな笑みを投げ掛けていた。明らかに酔っている。
一目見て、俺はそいつを嫌いだと思った。
アーミテイジより少し歳上だろうか、見るからに高価そうな腕時計と靴を身につけている。爽やかな笑顔には人を小バカにしたような雰囲気があった。
「嫌味なエリート野郎」。一言で言えば、そんな感じ。
しかもそいつは、俺を見つけるなり頭のてっぺんから靴の先までサッと一瞥しやがった。びしっと決まったスーツ姿の彼と、パジャマみたいにヨレヨレの自分の落差を意識して、とつぜん恥ずかしくなる。
「やっぱり、アーミテイジじゃないか。なんだ、帰るのか?」
嘘だな。
俺は眉をしかめた。
偶然を装ってはいるが、こいつは恐らくわざとアーミテイジを追っかけてきたんだろう。ただの勘だが、俺のこういう勘はたいてい当たる。
「ギャビンか」
アーミテイジが振り返る。その声には、嫌悪というより疲労の響きが感じられた。
「ちょっと酔ったんでな。お先に失礼しようかと」
「へえ、そうかい。珍しいこともあるもんだな。──おや?そちらは?」
アーミテイジがギャビンと呼んだ男は、わざとらしく今さら俺に気づいたような素振りを見せる。最初から好奇心丸出しでジロジロ見てやがったくせに。 
──こいつ、きらいだ。
そう思ってしまった瞬間、俺は全身に警戒と敵意のオーラがみなぎるのを感じた。アーミテイジの立場もあるのだから、あからさまにそんなふうにするのはダメだと頭ではわかっているのに、どうしても抑えられなかった。
「ああ、紹介しよう。レンだ。俺のパートナー。レン、同僚のギャビンだ」
俺が全身の毛を逆立てたのを敏感に察知したアーミテイジが、俺とギャビンの間にさりげなく割って入る。紹介するというよりは、まるで俺を庇うかのような動きをしたアーミテイジは、俺とは対照的に見た目も声も穏やかでにこやかだった。
ほう、とギャビンが酔いに濁った目を細める。
「アーミテイジ・“変わり者”・ハックスのパートナーに、とうとうお目にかかれるとはな。──初めまして、レン。ギャビンです」
「パートナー」という単語に、心なしか強めのアクセントが置かれていたように聞こえた。いや、俺の被害妄想だろうか。
セキュリティ・ゲート内側の、それも階段を数段のぼった上から、ポケットに手をつっこんだまま挨拶するという暴挙に出たギャビンの、侮蔑と優越の入り交じった視線を腹立たしく思いながらも、俺はただもぞもぞと口のなかで挨拶をした。
「あ、レンです……どうも……」
視線すら合わせられなかった。
俺はいつもこうだ。
少しでも攻撃的な他人の前に出ると、身体がこわばってしまう。まともに口をきくどころか、目を合わせることすらできないのだ。
アーミテイジのためにも、もっとちゃんとしたいのに。
うつむいていると、ギャビンが追い討ちをかけるように言うのが聞こえた。
「あんたが頑なにパートナーを連れてこないのは何故だろうって、いつも皆で話してたんだ。なるほど、そういうことか」
どうとでも取れるような、意地の悪い言い方。
気にしちゃダメだ。
怒ってもダメだ。
笑って聞き流せ。
いっしょうけんめい自分に言い聞かせたが、怒りで身体が震えるのは止められなかった。
「せっかくだ、記念写真と行こうじゃないか」
は?と思う暇もなく、ギャビンはスマホを取り出す。そして俺たちに向けて素早くシャッターを切った。
カシャリ。
大袈裟な効果音が耳に突き刺さる。
「皆も見たがるだろうからな。なんせ謎多きエリート、アーミテイジのイケメン彼氏だ」
カッと頭に血がのぼった。
ベラベラと喋る奴の声が遠ざかり、耳鳴りがした。
──こいつ、ぶん殴ってやる……!
思い切り拳を握りしめた、その時だった。
不意にアーミテイジの手が、俺の手をやさしく包んだ。ハッとしてアーミテイジを見る。彼は振り向き、俺にだけわかるような小さな微笑みを浮かべていた。大丈夫だ、というふうに。
そしてすぐにギャビンに向き直り、声を張り上げた。
「だろ?彼、銀河一の男前だろう。パーティーなんかに連れて来ると、礼儀も知らない田舎者が勝手に写真を撮りまくるんだよな」
ちょうど今みたいに。
ギャビンの額に青筋が浮かぶのを見て、アーミテイジはにっこりと笑う。
「それじゃ、失礼。また明日な。行こう、レン」
そのまま俺の腕をがっしり掴んで歩き出す。されるがまま、俺はその場から引き剥がされ、ぐいぐいとひっぱられるようにしてビルを後にした。

「アーミ」
運転席から呼び掛ける。
「今度から、俺もパーティー出るよ」
「必要ない」
目を閉じたまま、彼はしっかりした声で答えた。やっぱり眠っていなかった。
「俺は一人が気楽でいい」
「アンガー・マネジメントのグループ・セラピー、俺、また行くから。今度こそちゃんと──」
「なあ、ギャビンのことは悪かった。気にするな。あいつはイカれてるんで有名なんだ」
「でも……」
「グループ・セラピーなんか必要ないだろ。お前は今のままでじゅうぶんやれてるじゃないか。大体、前にセラピー行ったときはいきなり五キロとか痩せたろ。俺のために、そんな無理しないでくれ」
『あんたが頑なにパートナーを連れてこないのは何でだろうって、いつも皆で話してたんだ』
気にするなと言われても、その言葉がぐるぐると頭をめぐる。
アーミテイジはいつも、パーティーに一人で出る。それで平気なのかと聞いたことがあったが、彼は“うちは意外と、そのへんおおらかなんだ”と笑っただけだった。俺はずっと半信半疑のまま、その言葉に今日まで甘えてきた。
「じゃあなんで今日、呼んだの」
「呼んだ?」
「俺を」
沈黙。
「酔ったわけじゃないんだろ?」
答えはない。
「エントランスでアーミの顔見たとき、なんかあったなって思ったんだ。言いたくないなら言わなくてもいいよ。でもさ、俺だって少しは役に立ちたいよ。俺にできることがあるのに、アーミ一人が傷ついてるなら、そんなの俺……じゃあなんで俺いるのってなるし……その……」
話しているうちに何が言いたいのかわからなくなり、俺は黙りこむ。
ワシントンDCの金曜日の夜、道路は混んでいてなかなか進まない。少し進んでは止まり、を繰り返す。
三回ほどの赤信号をやり過ごし、アーミテイジはようやく口を開いた。
「ちょっと、疲れたんだ」
「……どういうこと?」
「わからん。特に何かあったわけじゃない。ただ、下らん会話を延々と繰り返してたら、急にめまいと動悸がひどくなって、ああ、いつものかと思ってトイレに逃げ込んだんだが……」
今日はそこで一歩も動けなくなってな、とつぶやくように言う。
「どうしたら動けるようになるかなって考えてたら、お前の顔が思い浮かんで、それで」
信号が青になる。
アクセルを踏む足が少し遅れた。
「お前があのビルも、ああいう場も嫌いなことはわかってたのに……どうしてもお前の迎えじゃなきゃ、嫌で」
とある交差点にさしかかると、急に渋滞が流れだす。ここまで来れば、アパートメントまではあと少しだ。
「お前は何もしてないって言うが、こうして来てくれたじゃないか。それだけで充分だ」
そこでアーミテイジは再び口を閉ざした。
窓の外を見つめる横顔がなんだか寂しそうに見えて、俺は思わず謝っていた。
「………なんか、ごめん」
「なんで謝るんだ」
「ごめん……あ、ちがう、ええと」
アーミテイジが苦笑する。わたわたしているうちにアパートメントが見えてきて、俺はひとまずそちらに意識を集中させた。

「レン」
部屋に向かうエレベーターのなかで、不意にアーミテイジが言った。
「今日は、ありがとな。……ほんとに」
「おやすい御用です」
そう返すと、彼はくすんと笑って俺の肩に頭を預けた。
アーミテイジは、甘えるのが下手だ。
そんな彼が、俺に助けを求められるようになっただけでも、それは奇跡に近いのかもしれない。だからアーミテイジの言うとおり、俺は本当に何もしなくてもいいのかもしれない。今のままでも、彼はじゅうぶん幸せなのだと。
でも、と俺は考える。
もし俺が自分の性質を少しでも変えることができて、それが彼の助けにもなるのだとしたら?
不可能かもしれない。しかし、やってみる価値は、あるんじゃないだろうか。

エレベーターはポンと音を立ててフロアに到着した。
アーミテイジが部屋のドアの鍵を開ける。
「あー、ただいま」
部屋に入るなり、彼は大きく伸びをした。解放感あふれふるその背中を、気づけば俺は思い切り抱きしめていた。
「わ、なんだよ、いきなり」
「アーミは偉いなあと思って」
いい子だねえ、がんばり屋さんだねえ、と言いながら、うりうりと俺の頭をこすりつける。彼はやめろ!と笑いつつ、全身を俺に預けてきた。その体重は、ほぼ俺と同じ身長とは思えないほどに軽い。
こんな細い体で、彼は今までどれだけの重圧を跳ね返してきたのだろう。
どうして、そんなに強くいられるのだろう。
安心しきったように俺の腕の中で笑う彼を、俺はもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「がんばり屋さんのアーミには、レンが珈琲を淹れてあげようかねえ」
ふざけてそう言うと
「何キャラだよ、それ……ていうか、待て、それだけはやめろ。コーヒーメーカー使え」
焦ったようにもがく彼を羽交い締めにして、ずるずるとリビングまで連行する。
「諦めなって。俺もう決めたもん」
そう。
アーミテイジのためとかじゃなく。
他の誰でもない、俺自身の意志で。
「い、嫌だ!せっかくいい気分だったのに、お前のまずい珈琲で台無しにされたくない……!」
「うわ、傷つく!練習しなきゃ、うまくもならないだろ?」
そうだ。
やってみなくちゃわからないんだから。
「い、いいってば!俺が淹れるから!な、な?」
「いいから、アーミはソファで休んでなさい」
ぽいと彼をソファに放り投げ、俺は珈琲豆の袋を手に取った。
ねえ、アーミ。
俺、ちょっとだけ、頑張ってみようかなって思うよ。
とりあえず明日、ずっとご無沙汰していたセラピーグループの電話番号を探すことから。
いいって、やめろ!という悲鳴を背中で聞き流し、珈琲ミルを回す俺の口からは、いつの間にか軽やかな鼻歌が流れだした。

(了)


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