きみがくれた日

  今日は、レンの誕生日。
 本人は朝からそわそわしていた。朝飯を取るあいだも、チラチラとこちらを盗み見ては、視線が合うとあわてて反らす。
 落ち着きなくあっちこっちに視線を泳がせている彼を横目で眺めながら、俺は澄ました顔でコーヒーを啜る。
 ──かわいい奴。
 しかし、そう思っていることを悟られてはゲームが成立しない。
 俺はポーカーフェイスを保ったまま、いつもどおりに家を出た。
「もしかしたら、今日は遅くなるかもしれない」
 出がけに一言、なにげない調子で付け加えるのも忘れない。
 それを聞いたレンの落胆ぶりは、絵に描いたようだった。犬だったら尻尾も耳も垂れ下がっているだろうなと容易に想像できるほど、みるみるうちにしょげかえっていく。毎年ながら、このときだけは心が痛む。
 が、彼の落胆も、あと二時間程度だ。
 俺が必要な買い物を終えて家に戻ってくるまで。
 今年はとうとう休みをとった。たまには、家でだらだらするだけのサプライズも良いだろう。
 でかい花束とケーキを抱え、とつぜん帰ってきた俺を出迎えるレンの表情を想像するだけで、俺の頬はしぜんと緩んだ。
 あれ、忘れてる? からの、サプライズ。
 さすがに毎年続けていれば、いいかげんに茶番にもなりそうなものだが、いまだに彼は本気で一喜一憂しているように見える。その様子が楽しみで、俺もつい遊んでしまう。
 彼だってバカじゃないから、まあこれは二人のあいだで交わされた暗黙の了解、お遊びみたいなものだ。

 結論から言うと、今年もサプライズ(?)は大成功だった。
 俺の予想どおり、家でふて寝タイムに突入しようとしていたレンは、 帰ってきた俺を見るなり「今年こそ忘れられたかと思った」と泣き出した。(俺、そんなに信用できないか?)
 少し慌てたが、休みを取ったのが良かったらしい。特に目的もなく、ジャンクフードとゲームにまみれて一日中いちゃつくだけの時間を、レンは思いのほか喜んでくれた。
 そういえば最近、家でのだらだらした時間を過ごしてなかったな、と少し反省する。

  さっきまで某格ゲーのオンライン対戦で負けまくっていたレンは、ひとしきりガチ切れした後「ちょっと頭冷やしてくる」と笑いながらバルコニーに出ていった。
 窓ガラス越しに佇む彼の背中を見ながら、あとはもう無茶苦茶に抱くだけだな、と俺がぼんやり考えていた、そのとき。
 ふと、無造作に放り出されたレンの免許証が目に入った。
 普段なら気にも掛けないのに、なんとなく手元に引き寄せてしげしげと眺めたのは、何故だったのだろう。
 証明写真のレンは、いったい何と戦っているのか、やけに暗い顔をして正面をにらみつけていた。犯罪者みたいで、普段の顔の良さとの落差も相まって妙におかしい。
 本名、住所、体重、身長……。
 どれも知っていることばかりだが、それをきちんと覚えている自分自身にも少しばかり驚く。他人のことなど毛ほども覚えていられない、この俺が。
 ──まあ、それだけ長い時間、いっしょにいるってことなのかもな。
 ほんの少しだけしみじみしながら、生年月日の欄に何気なく目をやる。二十五年前の、昨日の日付が記されていた。
 ──ん?
 なにかが引っ掛かる。
 俺は、もう一度自分の思考を文字に起こして確認する。
『二十五年前の、昨日の日付が記されていた。』
「え」
 ………………『昨日』?
「あ、アーミ」
 背後で声がした。振り向くと、レンがいつの間にか戻ってきていた。 視線が、俺の手の中にある自分の免許証と俺の顔を交互に行き交う。数往復のち、彼は困ったようにニコリと微笑んだ。
「あ、あの。えっと、えっとね」
 沈黙する俺を気遣うような口調が、いたたまれない。
 そう。
 つまり。
「レン。お前」
「はい」
「た、誕生日……」
 その先を、口にするのが恐ろしかった。
 だが。
 言わねばなるまい。
「………昨日、か?」
 間。
 恐ろしいほどの沈黙。
 たっぷり十秒ほど置いて、レンは静かに頷いた。
「うわあああああああ!!!!! マジか?!?!」
「じ、じつは」
「ずっと? この五年間、ずっと?」
 当たり前だろう。
 固定されてない誕生日なんか存在するか。
 混乱のあまり、自分が何を口走っているのかわからない。
「え、じゃあ俺、お前と出会ってから毎年、一日ずれた日付で祝ってたの? 恋人の誕生日を? 死ぬほどカッコつけて?」
「こ、こいびとの、たんじょうび……」
「今さらどこで感動してるんだお前は!」
「ええ、だって」
「だってじゃない! 怒れ! 少しは怒れよ!! ていうかなんでもっと早く言わないんだ!! いくらでも訂正できただろう! クソ、なんで、なんでこんなア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよアーミ」
「無理無理落ち着けない恥ずかしい無理死にたい!! 死ぬ!!!! 忘れてくれ! 別れよう! そしてやり直そう!!!!」
「嫌だよ何言ってんだよ! マジで落ち着けオッサン!!」
 もう、本当に死にたかった。
 あんなにかっこつけてサプライズデートとか散々やっておいて、五年間誕生日一日ズレてましたーとか、馬鹿か?馬鹿だろ!
 それをまさか、俺が、この、俺が!!!!!!!!
 顔を覆って床にうずくまる俺を、レンはおろおろとなだめる。
「いや、あのな、言おう言おうと思ってはいたんだ。でも、アーミ、記念日とか覚えられないだろ? それなのに祝ってくれること自体が嬉しくて、言い出せなくて。そのうち三年目くらいから、なんかむしろ一日ズレた日が俺の誕生日なんじゃないかなーくらい思えてきて! そっちじゃないと落ち着かないっていうか……だから、だからな!」
 今日が、俺の誕生日なんだよ。
 レンはそう言って、俺の肩に手を置いた。
「あんたが俺にくれた誕生日が今日だ。俺、そっちのが良い」
 彼の言うとおり、俺は記念日が覚えられない。今までどんなに入れ込んだ男でも、誕生日や記念日の類いだけは覚えられなかった。
 その俺が、生まれて初めてきちんと覚えられたのが、レンの誕生日。
 だと、思っていたのに。
「……す、すまん……………」
「いいってば。むしろ、たった一日しかズレないで覚えててくれたことの方が驚きだよ、俺は」
 あんた、自分の誕生日すらあやふやなくせに、俺のはちゃんと祝ってくれるんだもん。
 嬉しそうに笑う顔に、嘘はなさそうだった。
「ただ、まあそうやってズレてるから、毎年『今年こそはダメなんじゃないか』って不安で……」
 そういうことか。毎年の朝のそわそわは、演技でもなんでもなかったわけだ。
「だから、もう俺の誕生日は、今日です」
 言い切ると、レンはなぜかエヘンと胸を張った。その優しさが、打ちひしがれた身に沁みわたる。本当にデキた男だ。いや、単に俺にベタ惚れなだけかもしれないが、どっちだっていい。
「……なあ。俺、これからどっちで祝えばいい……?」
 途方に暮れる俺を見て、レンはでれりと笑み崩れた。
「えー、じゃあ、両方」
「調子に乗るな」
「なんだよケチ」
「腹立つ……」
 憎まれ口を叩くが、まったく格好がつかない。決まり悪げに頬を掻いていると、レンがにじり寄ってきた。
「ねえ、アーミ。あのさ。もう謝らなくていいからさ。それより──」
 そこから先は口を濁す。
「……“それより”?」
 いま意地悪しても間抜けなだけの気もしたが、いちおう礼儀として問い返す。レンは少しだけ羞じらったあと、「ベッド、いこ?」と小声で言った。顔を赤らめてもじもじと上目遣いをする奴はかわいいが、俺は少し呆れる。
「お前、この状況から良くサカれるな……。ふつう萎えるだろ」
「いや、それが……カッコ悪いあんた見てたら、すごいムラムラしてきて……」
「本当にシバくぞお前」
「シバいて良いから、ヤろ」
「わあ素直」
 なんだかんだと揉めながら、俺たちの距離は少しずつ近づいていく。
 ──格好つかない状況でベッドまで雪崩れ込むなんてのも、考えてみたらこいつが初めてだな。
 しなだれかかってくる大きくて重い体を受け止めながら、ふと思う。
 なんの躊躇もなく大きな大きなハートマークを飛ばしてくる彼の可愛い顔に、俺はとびきり優しいキスをする。そして、コホンと咳払いすると、改めて彼に囁いた。
「レン」

  ──誕生日、おめでとう。