深夜の休息

 執務室から薄く漏れる灯りで、彼がいることは容易に知れた。
 時刻はとっくに午前零時を回っている。
 また歯止めが効かなくなっているのか、とノッ クもせずにドアを開けば、果たして仕事中毒の男はデスクに向かい本を広げていた。
 机上には黒い革手袋が几帳面に重ね置かれている。勤務時間外、か。
「営業時間は過ぎたぞ」
 顔を上げもせずに彼が言う。機嫌が悪いわけではなく、例によって本に夢中になっているらしい。
「こんな小さな灯りで、目を悪くする」
 聞き流されるのを承知で小言を言いながら、俺は断りもなく、彼のデスク一番下の抽(ひき)斗(だし)から紅茶の缶を取り出した。で、勝手に淹れる。二人分。
 ティーセットの趣味などわからないから、手近にあるのを使う。
 並々と注いだカップをデスクにごとりと置くと、やはり目は本に注いだまま、彼は手を伸ばし、一口啜って顔を顰めた。
「今日も不合格だ」
「茶ぐらい文句言わずに飲め」
 まったく、どれだけ貴重な茶葉だと思っているんだ、などとブツブツ文句を垂れているが、それでも俺が勝手に振る舞うのを止めることはない。
「今度はどんなのを読んでるんだ」
 俺も手袋を外しながら訊ねる。本当は 大して興味もないのだが、ここまで彼を夢中にさせる書物に、小さな嫉妬めいたものを感じては、いた。
「小説だよ」
「どんな」
「弱い人間は服従したがる生き物だ、 という話だ」
「……嫌な話だな」
 俺がわからないと思って、どうせ嘘っぱちのあらすじでも口にしてるんだろう、と茶化す。てっきり俺のアホな感想を小馬鹿にした反応が返ってくるとばかり思っていたのに、意外にも彼は頷いた。
「そうかもな。……だが、事実だ」
 そう独り言のようにつぶやく彼の横顔は、なぜか憂いを帯びていた。
 頁のあいだに落ちた視線がぼんやり揺れる。
 そうして暫(しばら)く物思いに耽(ふけ)っていたが、やがてまた、静かに本の世界へ帰って行った。
 一部始終を眺めていた俺は、部屋の隅から一脚の椅子をずるずると引きずって来ると、彼の座る椅子にぴったりと横付けた。そのまま、ごろりと横になり、無防備に空いていた彼の腿に頭を投げ出す。
「おい」
 と迷惑そうな声。
 「訓練帰りはシャワーを浴びろと言っただろう」
 汗臭い、と鼻に皺を寄せながら空気を払う身振りをする彼の左手をさっと捕まえ、手の甲に軽く口づけながら笑い掛ける。
「何だよ、遠回しなお誘いか?」
「一人でマスかいて寝ろ、ガキ」
 ぺちんと額をはたかれた。やっぱり駄目か。 どうやっても、本には勝てない。
「二時間」
 俺は仮眠の時間を告げる。
「知らん」
 そうは言いつつ、きっかり二時間後に起こしてくれることを、俺は誰より知っている。
 何気なくデスク下のゴミ箱に目をやると、空の薬包が数袋覗いていた。睡眠薬だ。また量が増えている。
 ――また、眠れないのか。それで読書か。
 気持ちが少し暗くなる。寝かせてやりたいが、俺には何もできない。
「おい、レン」
 少し怒ったような口調で呼びかけられ、俺は我に返った。
「ん? ああ、そうか」
 忘れていた。
 執務室のドアを慌ててロックする。フォースで。こんな不敬な使い方、誰にも見せられない。この男以外には。
 ピッという機械音と共に、部屋は完 全な無音に包まれた。
 もはや俺が膝にいることなど忘れたように本に集中する顔を見上げながら 俺は先ほどするりと逃げた彼の左手をもう一度捕まえる。しっかりと抱き込むと、その手がトントン、と俺の胸を叩いた。いるぞ、と言っているように聞こえ、安心して俺は目を閉じる。
 俺の心音が、少しでも彼に安心を分けられると良い。そう願いながら。
 ――それから。
 仮眠の終わりを告げる無愛想な声で起こされたときも、まだその本にかまけているようなら、俺にも考えがあるからな。
 覚悟しろよ。