[kylux] 玄米、ヌードル、プリンに苺

1.起床、そして発病

 アーミが熱を出した。
 彼は、いつもなら目覚ましが鳴り出す前にアラームを止め、粛々と出勤の準備をし、静かに家を出る。朝が弱い俺は、だいたい彼が玄関のあたりで最後の身支度チェックをしている気配を夢うつつで聞きつけ、慌てふためいて寝ぼけ半分、よろめきそこらじゅうにぶつりかながら彼のもとまでまろび出て、迷惑そうな彼に行ってらっしゃいのキスをして送り出す。
 けれどその日の朝、アーミのスマホのアラームは5分経っても鳴りっぱなしだった。はたかれても蹴られても起きないこの俺が、うるさくて寝ていられないと飛び起きても尚、彼は俺の傍らに横たわったままだった。
 異常事態だ。
 まさか死んでるんじゃないだろうなと恐る恐る肩にそっと手を伸ばし、俺はすべてを悟る。
 彼の体は、燃えるように熱かった。
「……い」
 不意に、アーミが口をきく。
 しかし、ぐるぐる巻きのブランケットに阻まれて、その声は聞き取りにくい。
「え、何?」
 聞き返した俺に、彼はガチガチと合わぬ歯の音とともに、折り重なる布のドレープの隙間から唸るように繰り返した。
「さ、寒い」

2.攻防

2-1.説得

 39度だった。
 ベッドで寝ていろと言ったのに、何故かキッチンまで起きてきた彼に体温計を突きつける。
「休むよね」
「……」
 力なくスツールに腰掛けたアーミは、無言でついと目を逸らした。
「や・す・む・よ・ね」
「いや、しかし」 
「休め」
「……」
 返事がない。やっぱり行く気でいたらしい。正気か。
「インフルエンザかもしれないんだよ」
 言い募る俺に、彼はぶうたれる。
「予防接種したもん」
「予防接種は予防でしかないよ」
「でも」
「でもじゃない。大体、あんたプロなんだろう。プロが風邪引いてノコノコ出社して、パンデミック起こすのか?」
「…………!」
 有無を言わせぬ勢いの俺に、アーミはほんの一瞬だけイラっとした表情をした。が、何か言い返す気力もないらしく、鼻息荒く憤然と横を向いて見せただけで黙ってしまった。
 俺に言い負かされるなんて、かなりヤバい。
 本人もそれは自覚しているらしく、いつになく精彩を欠いている。何より、見ただけでも体がしんどそうだった。熱のせいで顔は赤く、呼吸も荒い。
 普段、元気な状態でこんなふうになられるのは嬉しいだけなのに、今は心配でしかない。健康ってのはありがたいもんだな、と妙に感心してしまう。
「寝てなさい」
 腕組みをして一歩も譲らぬ構えを見せた俺に、彼は素直に従った。
「……覚えてろよ、クソ……」
 訂正。
 素直に、ではなかった。

 *

 それからが大変だった。
 食欲のない彼に、とりあえずオレンジジュースで水分を取らせたあと、俺は彼の入っている保険を調べた。行ける病院をピックアップし、車を出そうと寝室に向かうと、彼がいない。焦って家中(っていってもマンションの一部屋なんだけど)を探し回ったら、普段は書庫と化している自分の仕事部屋で寝ていた。
 驚いたが、とりあえず起こして歩けるかと聞くと、嫌だと言う。
「病院は嫌だ」
「嫌だって、じゃあどうすんのさ」
「市販薬でいい。どうせ行ったってクソうるさい待合室で延々待たされて同じ成分の薬出されるんだぞ」
「そうは言ったって、さっきも言ったけどインフル――」
「違うから」
「は?」
「俺の魂がそう言ってんだ、うるさい、しんどいんだ寝かせろ」
 言うなり彼は、病人とは思えない怪力で俺を部屋から閉め出した。
「ちょっと!」
 ピシャリと鼻先で閉められたドアに向かって叫ぶ。
「だいたい、なんで仕事部屋で寝てんの! 寝室に来いって!」
「……から」
「なに、聞こえな――」
 バタンとドアが開く。
 ぬっとアーミの顔が覗いた。その顔が、熱で潤んだ瞳でじとっと俺を睨んだ。
「お前に伝染すからだ! 来んなバカレン!」
 バタンとドアが閉じた。

 *

 10分後。
 俺がドア越しに彼の症状を聞き取りし、ネットで今年流行のインフルエンザの症状と照らし合わせることで、どうにかこの危機を脱することに成功した。そして、どうやらインフルではないことも突き止めた。
 ほっと一息吐いたのものつかの間、慌てて家にあった市販薬を飲ませる。(「これじゃなくてシロップの!」と騒がれたが、さすがに有無を言わさず口に突っ込んでやった)その間も、「伝染すから」の一点張りで、なかなか部屋に入れようとしてくれなかったのには難儀した。
 ――心配してくれるのは嬉しいけど、さ。
 順序が逆だ。
 それに、頼られていないような気がして情けなくもあった。そして、それより何より彼が心配で、俺は多少ぷりぷり怒りながら、何気なくキッチンの壁かけカレンダーを見た。
「あ」
 そこで、ようやく気がついたのだ。
 一週間後に、俺の予定――新しい編集者との初顔合わせ――が入っていたのだ。
 さっきキッチンでやけに素直に自分の主張を引っ込めたのは、もしかして。
「……もう」
 このカレンダーが目に入ってしまい、治さないと逆に迷惑が掛かるとでも思ったのだろう。さらに、俺には絶対に伝染しちゃ駄目だ、とも。
 嬉しさと申し訳なさの入り交じるため息をつき、俺は時計を見た。
 さて、昼までに熱が下がるかどうか。

2-2.説得

 昼過ぎ。
 薄暗い仕事部屋を覗くと、彼はすやすやと寝息を立てていた。そっと額に手を触れると、熱はかなり下がっているようだった。薬が効いたらしい。
 ほっと胸を撫で下ろしたとき、彼がぱちりと目を開いた。
「あ、アーミ」
 熱が下がって楽になったのだろう、少し穏やかな顔つきになった彼は、無心にベッドから俺を見つめている。
 彼の子どもみたいな眼差し(めったに見られるものじゃない)に絆され、俺は仏心を出した。
「もうすぐお昼だけど、何なら食べられる?」
「う……ん?」
「食べられるものがあるなら、俺、買い物行くよ」
「え」
 彼の目がキラリと光った。嫌な予感がした。
「じゃあ」
「うん」
「いちごアイスと」
「あ、うん」
「シュークリームと」
「……うん」
「あと、生クリームつきのプリン」
「……」
「買ってきて」
「ダメです」
 みるみるうちに彼の頬がぷくっと膨んでいく。
「そ、その手は通用しないぞ!」
 俺はあわてて、顔を背けて叫んだ。
「おかゆ! おかゆ作るね!」
 そして、己の脆弱性を突かれる前に、脱兎のごとく部屋から逃げ出した。

illustration by とうふ(@ntofu128)
イラスト:とうふ( @ntofu128 )

 *

「……で、これ、何」
 寝てろと言ったのに(以下略)、キッチンのテーブルについた彼が、胡散臭そうに目の前のボウルをつつく。
 汗をかいたパジャマを着替え、すっきりした彼の表情は朝から段違いで良くなっていた。ひとまずはその事実が嬉しい。
「チキン・ライス・スープ」
「なんでヌードルじゃないんだ」
「玄米のほうが体にいいかなって」
 彼はあからさまにげんなりした顔をした。
 ――玄米とか、嫌いだもんね。
 作っているとき、可哀想かなとは思ったのだ。が、これは恋人心である。はやく良くなってほしいからこそ、心を鬼にして――
「うええ」
「おい!」
 憎たらしくも、彼はお粥のたんまり入った保温ボウルを、ずいと遠くに押しやった。
「食べてもいないのにえずくな!」
「だって……」
 ぶすぶすと不満を垂れる彼を眺めながら、俺は、おやと思う。
 アーミはたしかに好き嫌いが激しいし、そもそも食にあまり興味があるほうではない。けれど、俺が彼のためにと作ったものは、なんだかんだ言いながら決して拒絶しないのだ。
 と、いうことは。
「……なるほど。甘えん坊さんですね、アーミくんは」
「は?」
 ぎょっとしたようにこちらを向く彼の目が、滅多にないくらい揺れている。嫌な予感に怯えているのだ。
 ――そのとおり!
 俺は笑いを噛み殺す。
「しょうがないなあ。わかりました、任せなさい」
「何がだよ! 薄気味悪い笑いかたすんな!」
 悪態を無視してうふふと笑うと、俺は彼の手からスプーンを取り上げた。遠くに追いやられたボウルを引き寄せ、湯気を立てているスープをひとすくいし――
「お、オイまさかお前」
「はい、アーン♡」
 お粥で満たされたスプーンを突きつけると、アーミはギャアと叫び声をあげた。
 ――わがまま放題の甘えっ子には、こうだ。
 口に出さずにニヤリと笑うと、彼は観念したように目を閉じ、俺からスプーンを奪い返した。
「く、食う! 食うわ!」
 俺に食べさせてもらうのがよほど嫌だったのだろう。チクショウとかつぶやきながら、アーミはむすっとした顔でお粥を啜った。ズッと音を立てて。まったく、往生際とお行儀が悪い。
「う」
「…………“う”?」
「うまい」
 消えそうな小声でそういったのが聞こえ、俺はとうとう我慢できずに声を立てて笑った。
「だろ? ……ていうか、本当はちょっとだけ俺に食べさせてほしい気持ちあるだろ? いいよ、やるよ、俺」
「ば、バカかお前は! 俺の風邪うつったんじゃないのか?!」
「風邪引いて甘えても、そこは素直になれないかあ。せっかく俺から仕掛けてやったのに。仕方ないオッサンだな、あんたも」
 からかい半分、本気半分でカマをかける。
「ううううるさい、お前も黙って食べろ!」
 噛みつく彼の耳が真っ赤なのは、どうやら熱だけのせいではないらしかった。

2-3.休息

 見栄っ張りの風邪っぴきに食事を与え、薬を飲ませて、再度仕事部屋のベッドに追いやったあと、俺は出かけることにした。
 さっきはにべもなく却下したアーミの「食べたい」リストだが、食べたい気持ちがあるのはいいことだ。全部とまでは行かなくても、せめてひとつくらいは甘いものを買ってこよう。
 そう思って車を出した。

 *

 ついでに雑用を済ませて帰宅すれば、もう17時を回っていた。
 ――夕飯の支度しなくちゃ。
 すこし焦りながら、買ってきたものを手早く冷蔵庫に突っ込んでいく。
 ふと目を上げて見渡したリビングは、出ていったときと同様、整然としていた。
 ――よしよし、起き出して仕事とかしなかったな。
 満足しながら、俺はローテーブルに朝から放置されっぱなしのラップトップを見遣った。

「って、俺が騙されるとでも思ったの?!」
「なんだよ、寝てる病人に怒鳴りこんでくんなよ!」
「なーにが“寝てる”病人だよ、ラップトップ使っただろ! 仕事したんだろ!」
「仕事はしてない」
「メールチェックは仕事じゃない論法はAcceptできません!」
 これだけぎゃんぎゃん怒鳴り合っていれば、よく考えたらもう風邪は治りかけていると見なして良いのかもしれない。しれないけど、心配なんだよ!
「もう、せっかくいちごアイスとプリン買ってきたのに!」
 その言葉を聞いたとたん、アーミの顔色が変わった。
「……え?」
「お腹も壊してないみたいだし、夕飯のあとに余裕あったら食べてもいいかなって」
「え、ええと……ていうか待て、なんで俺が腹下してないこと知ってるんだ?」
 しまった。
 こっちが優勢だったはずなのに、うっかり口を滑らせて厄介な話になった。
「……黙秘します」
「おま、まさか……! それはプライバシーの侵害だぞ……?!」
「え、えと、俺が今問題にしてるのは」
 だが、今日彼は弱っている。今なら押しきれる。だいたい、俺はただ、彼がトイレに入ってる前をたまたま通りかかっただけだし。それより今は――
「アーミ、正直に答えろ。仕事しただろ?」
「う」
 それは、とアーミ。
「な、なんで」
「なんでバレたかって? これです」
 俺は得意げに一本の糸屑を高々と掲げた。
「ああっ」
「出かける前に仕込んでおいたんだ。これが床に落ちてるってことは――」
 こんな古典的な手法に引っ掛かるとは、天下のアーミも落ちたもんだね」
 クソーと悔しがるアーミを見て、俺は思わずふはは、と高笑いしそうになり、慌てて正気を取り戻す。
「じゃなくて。――こんな簡単な俺の罠に引っ掛かるくらいなんだぞ、今のあんた。少しはヤバさを自覚しろよ」
 そう。
 俺が言いたいのはそれだ。
 休まなければ、治るものも治らない。彼はいつも頑張りすぎるから、こうでもしないと言うことを聞いてくれないのだ。
 うう、と項垂れる彼に、俺は屈み込む。
「俺、ほんとに心配なんだよ。――わかる?」
「う……す、すまん……」
「……まあ、わかればよろしい」
 だから、ちゃんと寝てろよ。そう言うと、彼はおとなしくコクンと頷いた。その姿がなんだか可哀想で、俺は思わずアーミを抱きしめてしまった。
「うう、早く良くなあれ!」
「よせって」
 バタバタ暴れる彼をさらにぎゅうぎゅう抱きしめる。と、アーミが本気で怒ったように言った。
「よせ! 伝染るから!」
「アーミさ……俺の予定、見たんでしょ」
 俺が彼から離れると、彼はぷいっと横を向いた。
「……なんの話だ」
「伝染る伝染るって、いくらなんでも気にしすぎだと思ったんだ」
「……」
「優しいんだからなあ、アーミは」
「どっちがだよ」
 俺がどんなにわがまま言っても怒りゃしねえんだから、まったくお前は、と口のなかでつぶやく姿がいとおしい。
「でも、実は俺、言わなきゃいけないことがあって」
「……何」
「あの予定さ……書き間違い、なんだよね」
「………………は?」
 ――うん。申し訳ない。
 俺は頭を掻く。
「ホラ、俺、予定とか、管理できないだろ? そんでさ、今回もすっかり忘れてたから調べてみたら、さ」
 予定は、たしかにその日だった。
 一ヶ月後の。
「な、に……?」
 呆然とする彼に、えへへごめんねえ、と手を合わせる。次の瞬間、枕が飛んできて俺の顔面を直撃した。
「わぷ」
「お、お前……!」
「ごめん、ごめんて!」
「お前、お前、おまええええ!!」
「プリン買ってきたから! クリームは俺がつけるから! イチゴも乗せる!」
「お、俺が、俺がどれだけ……!」
「あ、やっぱり気にしてくれてたんだ」
「!!」

 アーミの怒りは、5分くらいで息切れした。
 
 いつもなら30分は怒り続けるから、やっぱり本調子からは程遠い。
 ぜえぜえ上がった息で、アーミは最後の最後、
「じゃあ、夜はもう、あっちで寝る」
 そう言ってどすんとベッドに横たわった。
 あっち、とは、二人の寝室のことだ。
「こんなん、お前に伝染してさっさと回復してやる……」
 呪詛じみたことを言っているが、なんのことはない、なんだかんだ一人で寝ていてさみしくなったのだろう。
「うん。一緒に寝よ」
「うるせ、ばか」
 そういう彼の顔は、ちょっと嬉しそうにニヤけていた。

3.就寝、そして回復

 アーミは夕ごはんにチキン・ヌードル・スープといちごアイスとプリン(俺は間違えてカスタードプリンを買ってきていたらしい。そのことで甘えん坊大王は嫌味を言ったけど、生クリームをホイップしたやつとイチゴのスライスを付けてやったら上機嫌になった)を綺麗に平らげ、俺の買ってきた風邪薬シロップを飲み干し、「やめたら」という俺のアドバイスを無視してシャワーを浴びてさっぱりしたのち、寝室のダブルベッドの真ん中でひっくり返ってぐうぐう寝ていた。
 あとから来た俺はベッドのはじっこからそうっと彼を起こさないように入り、背後から彼を抱きしめて眠った。
 俺も彼も、夢も見ず、ぐっすり眠った。

 朝目をさますと横に彼の姿はなく、玄関のほうでゴソゴソと気配がする。寝ぼけ眼であっちこっちぶつかりながらフラフラ出ていくと、パリッと身支度を整えた男前が靴を履いているところだった。
 え、もう行くのか、と言おうとしたとき、ふわりと彼に抱きすくめられ、俺の思考が停止する。
 ちゅ、と唇にやわらかい感触がして、
「行ってくる」
 低い声が囁いた。
 ありがとな。
 玄関のドアが閉まる寸前、そんな声が聞こえた。

 風邪を引いてないアーミには勝てないな、と、風邪ではない熱でとぼうっと上気する自分の頬を感じながら、俺は思った。



とうふ(@ntofu128)さんのイラストから作ったお話です。(かべうちに掲載した一発書きに多少手を加えたものです)
発表されたのはだいぶ前なんですが、二人のやり取りがあまりにも可愛い&「らし」すぎて、ずーーーーーーーーっと心に残っていた作品でした。
というわけで、ファンフィクを書いてしまったのでした。あくまでひとつの変奏ということで、よろしくお願いいたします。「それもまたファンフィクだね!」ということで、どうかひとつ……。

※掲載にあたって、ご本人の許可を頂いております。

初出:https://kabe-uchiroom.com/mypage/post.php?id=758333


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