[phelmitage] フィグ



 気配を感じて薄く目蓋を開くと、強烈な光が眼を射った。
 起き抜けには痛いほどの太陽光に怯み、目を細める。まばゆい日射しを背に、黒い影がこちらを覗き込んでいるのがわかった。
 引き攣れる瞼の筋肉を、無理矢理にこじ開ける。
 徐々に視界が開けていく。影は、やがて馴染み深い部下――ミタカの顔に変じた。
 ひと月ほど前には、さっぱりと清潔だったはずの部下の顔は、いまや泥と垢で薄汚れている。おまけに、鬱蒼と生い茂る木々が奇妙な形の葉陰を落とし、部下の顔の上には、奇怪で複雑なまだら模様が描かれていた。
 意識が明瞭になったとたん、噎せ返る熱気で肺が満たされるのを感じる。息苦しさに、ハックスは思わず顰め面になる。
「フェル」
 親しみをこめた愛称を呼んだつもりが、乾ききった喉では掠れた吐息にしかならなかった。けれど忠実な部下はきちんと聞き分け、にっこりと微笑んだ。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「どこに行っていた」
「これを」
 寝床から身を起こそうとするハックスを片手で助け起こしながら、ミタカはもう片方の手に持っていた包みを掲げて見せる。
 大ぶりの緑色の葉で包まれたそれヽヽの隙間からは、柔らかそうな朱色の何かが覗いていた。
 なんとか上半身を起こしたハックスが、それは何だ、と視線で尋ねる。
「果物です。おそらく、フィグの実の一種だと思うんですが」
「ああ、無花果いちじく
 食べられますかとの問いに、ハックスは黙って頷く。本当は食欲などなかったが、そう言えば部下が心配するのがわかっていたからだ。
 ハックスの答えに、やはりミタカは心底嬉しそうに笑顔を見せた。そして、いそいそと葉の包みを開く。
 深緑の中央に、赤黒く濡れた塊が載っていた。
「生でも食べられる、柔らかくて新鮮な部分だけを持ってきました」
 そう言いながら、ミタカは赤い果肉をひとつまみ、指で掴んで口に含む。ぐじゅりと爛れた音がした。 「やけに赤いな」
 ぽつりとこぼした上司の言葉には応えず、部下はゆっくりと果実を咀嚼しはじめた。そのまま、おもむろに顔をハックスへ向ける。ハックスも応じるように小さく口をひらく。どちらも、とても自然な動きだった。
 ミタカは赤く濡れた唇を開き、口中の果実を躊躇なく口づたえで上司に与える。つかの間、ハックスの眉がぴくりと動いたが、すぐに大人しく目を閉じる。
 唾液と混ざり合った果肉は、ほんのわずかにねっとりと粘度を含んで重くなり、乾ききったハックスの喉にも受け入れやすかった。ぐずぐずと崩れた果肉をミタカが舌で押しやるたび、ハックスのひび割れて血の滲む唇を、紅く透き通った液体が濡らす。あふれて顎を伝う。
 軽度の脱水で火照った身体は、果肉の汁気を貪欲に吸収していった。
 はじめは受け身だったハックスも、やがて積極的に部下の口腔に舌を伸ばし、求めるように腕を身体に絡める。
 嚥下のたび、互いの喉だけが別の生き物のようにこくりこくりと波打つ。

 長い時間を掛けて、二人はおとなの手のひらほどもある量の柔らかな果実を、すっかり食い尽くした。

 部下の口が空になると、ハックスは身体を離した。宇宙船の残骸でこしらえた寝床にふたたび身を横たえ、満ち足りた様子で囁くように言う。
「美味かった」
 ミタカは満足そうに目を細め、じっとその様子を眺めた。
なまぐささは、ありませんでしたか」
「いや」
 ハックスは目を閉じる。
「そうだな、少し、いや、思っていたよりもずっと……甘かったよ」
「よかった」
 心からそう感じているのがわかる声で、ミタカは笑った。
「脂があるんだな、果物なのに」
「この星は、土壌が豊かなのでしょう」
「その割には、この辺には食えるものが見当たらない」
「不時着した場所が悪かったんです」
「すまない、私が怪我など」
「僕は動けます。そのための僕です」
「だけどお前、傷だらけじゃないか」
「多少、走り回る羽目になりまして」
 ――あれは、逃げ足がはやい。
 小さくそう零したミタカの目に、翳りのような、ほの昏い炎が揺れた。
 だが次の瞬間、その炎は影を潜め、
「いえ、傷みが早いので、早くお届けしなければ、と」
 そう言って微笑む彼の表情は、晴れやかで迷いがない。
 目は閉じたまま、ハックスが静かに頷く。
「……あまり、危ないことはするなよ」
「大丈夫。ずっとやって来たことヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽですから」
 その答えに、ハックスはぱちりと目を開けた。
 真っ先に部下の唇が目に付いた。やけにてらてらと光っている。同じようにぬらついているであろう、己の唇を思う。試しに舌を伸ばし、ハックスはもう一度、己のそれをそっと舐めてみた。
 やはり、甘かった。
「さあ、もう寝て」
 何か言おうと口を開いたハックスを遮るよう、遠慮がちなミタカの手がハックスの瞼を優しく覆った。かすかに鉄錆のような匂いが鼻腔を刺した。
「一週間」
 不意にミタカがつぶやく。
「うん?」
 聞き返すハックスは、すでに半ば夢見心地だ。
「あと一週間耐え抜けば、救助隊が到着します。どうかご辛抱を」
 覆い被さるように自身を抱き竦める部下に身を委ね、ハックスはただ頷く。
「うん」
「それまでは、僕が貴方を御護りします。どんな事をしてもヽヽヽヽヽヽヽヽ
 ハックスは、赤子のようにミタカの胸に顔を埋める。垢で硬くごわつく制服が頬を擦る感触にも、もう慣れた。
 抱き合うと、互いの皮下に籠もった熱がじわりと染み出し、きつくなった体臭が混ざり合う。
 不快で不潔で懐かしい匂いに安らぎ、ハックスは真っ黒な睡りに落ちた。


<了>


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