Merci pour le chocolat

 彼の足が、ドアを跨いで部屋の外へ出ていく。
「では、おやすみなさい」
 黒々と長い睫毛を伏せてそう言ったお前の手を、私は強く引いた。
 倒れこむ体を抱き止めれば、その身体にはまだ私の熱が残っているようで、どこか懐かしさを覚える。
 間髪入れずに両手で掴まえ掬い上げた下顎に吸い付く私は、さながら吸血鬼か、あるいは淫魔(サキュバス)か。
「──ッ」
 驚きに呑んだ息を解放するように唇を離し、厚い胸になだれ込む。
「いやだ」
 か細い声でつぶやくことも忘れない。意図せず漏れ出た本心に聞こえるよう。
 逞しい腕にしがみつく。しがみついていると悟らせるため、指先に力をこめて。細く長い私の指は、さぞやしなやかに白く浮き上がっていることだろう。
 つい数時間前、私の部屋を訪れたお前を思い出す。
 その目が一瞬、ローテーブルに山と積まれた贈り物に貼りつき、すぐに剥がれたことを。
 堆く層を成す菓子とは、区別して置かれた美しい小箱。
 お前のくれた、特別な菓子。
 けれど日付が変わっても、いまだ手を付けられていない事実が、お前の胸の小さな棘となる。ちらりとは思ったんじゃないか、「これは意趣返しか?」と。
 半分は、当たりだ。
 ──中尉、あの、これを。
 忌々しい声だった。
 ──ご迷惑かと思ったのですが……。
 ──私に、ですか。
 戸惑うお前と、無垢を装う小娘。
 他愛ない日常の、ばつの悪い一コマ。なんの因果か、私は偶々居合わせてしまった──お前はそう思っているな?
 違う。
 あの小娘の目を、お前が少しでも興味を持って覗いていればわかっただろうに。
 ほんの僅か、一秒にも満たない一瞬。あれは女の顔で私を見た。まっすぐ。
 疑惑、牽制、そして挑発。
 あれは私が居ることを知っていた。私が居たからこそ、あの場でお前に近づいたのだ。
 この私に挑んだ度胸は褒めてやろう。相応しい返礼も用意した。
 ──どうもありがとう。嬉しいです。
 にこやかにそう答えた男は明日の朝、疲れ切った顔で勤務につくだろう。そして貴様は、この男に近づいたときに悟る。
 覚えのある香りがほのかに漂うことに。
 そう、まるで昨夜の情事の名残のように──。
 愚鈍な他の者たちは気づきもしない微細な変化を、半端に賢しい貴様だからこそ知るはずだ。
 この男が、誰の物かを。
 この男の心に棲むのは、たった一人であることを。
「将軍、」
 低い声は動揺して震えている。
 優しいお前は、私を振り切れない。決して。
「すまない。……寂しくて」
 止めを刺すのは、ストレートな言葉で。朴念仁のお前のための、特別配慮だ。
「……!」
 ほら、もう何も考えられないだろう? 隠しても無駄だ。その証拠に、吐いた息には情事の熱が再び燻ぶり始めている。
『別れ際のキスはしない。名残惜しくなるから』
二人で決めたルールが今日のためにあったことなど、お前は知る由もないだろう。
「貴方という人は」
 困ったように笑うお前。あと少し。
「今夜だけは、特別ですよ」
 耳元で囁く甘い声。私をあやしてくれるのか。なんて|優しい《スイートな》男。
 でも、そうだよな。
「ほら、泣かないで。そうだ──」
 だって、気になるもんな。
「──僕のあげたチョコレート、一緒に食べましょう」
「……うん」
 まったくもう、と朗らかに笑ったお前の足が、ドアの境界線を再び、跨いだ。