こうなるような気はしていた。
一度は後ろ髪を引かれる思いで辞去したはずの、青と黒の部屋に舞い戻りながら、ミタカは思う。
「珈琲にしますね」
そう告げながら、ソファ脇の小さなバーに立つ。
ふだんは紅茶派の上司だが、チョコレートを食べるときだけは珈琲を欲しがった。
慣れた様子のミタカを横目に、上司は黙ってソファに身を沈めている。弱々しい顔を見せたことが今更になって恥ずかしいのか、少しばつが悪そうにしているのが、なんだか可笑しかった。
常備された珈琲豆をミルに放り込み、湯を沸かす。
荒く挽かれた粉に、わずかばかりの熱湯を注いで蒸らす。
たちまち部屋は、珈琲の香ばしい匂いで満たされた。
「なあ、チョコ、開けていいか?」
くつろいだ空気に呼応するように、上司がソファから身を起こす気配がした。問い掛ける声も、心なしか弾んでいるようだ。
泣いたカラスがもう笑ったってやつか。
ほほえましく思いながら、
「どうぞ」
とミタカが答え終わらないうちに、バリバリと包みをはがす音が聞こえ出す。
歓声があがった。
「バイユールじゃないか!」
お気に入りのメゾンの登場に、無邪気にはしゃぐ様子が背中越しにも伝わる。あまりに現金な変わり身に思わず吹き出したミタカは、その拍子にドリップしていた手元を狂わせた。ふっくりと膨らんだ泡を崩しそうになり、慌ててケトルを回す腕を立て直す。
こっそりと将軍の様子を窺うと、彼は珈琲が待ちきれないのか、箱から一粒のショコラをつまみ出しては、「まだ我慢」とばかりに戻す作業を繰り返していた。
つい先刻まで寂しいと涙ながら袖を引いていた男とは到底思えない行動に、ミタカの心は甘やかに蕩けていく。
泣いたり笑ったり忙しいこの人が、ファースト・オーダーの将軍なのだから恐ろしい、と何度も思ったことを、今夜もまた思う。
「夜ですから、すこし軽めに淹れましたよ」
湯気を立てる漆黒の液体で満たされた、白い陶磁器のカップを供しながら、ショコラには物足りないかもしれないが許してほしい、とミタカが先制すると、
「うん」
子どものように素直にうなずく。
その姿に、急に胸が苦しくなるほどの強烈な愛おしさを覚えたミタカは、そっと主人から視線を外した。
動悸が激しくなる。
ミタカの胸に、昼間の光景が甦っていた。
「中尉、あの、これを」
自分を呼ぶ声に振り返ってみれば、一人の下士官が俯いて何かを差し出していた。
意味が理解できずに眉を寄せると、
「ご迷惑かと思ったのですが……」
蚊の鳴くような声でそう言い、さらに深く俯く。彼女の頬が紅潮しているのを認め、ようやくその意図を悟るないなや、ミタカは咄嗟に、全神経を背後に集中させていた。
「私に、ですか」
なにげないふうを装い問い掛けるあいだも、もはやミタカの意識は、名前すらうろ覚えの下士官には向いてはいない。はるか背後に立つはずの将軍──上官であり、主人であり、ミタカのすべてである男──に向けられていた。
今、この場を、彼に目撃されてしまってはいまいかと恐れて。
否。
回想のなか、ミタカは己の小さな欺瞞を否定する。
恐れていたんじゃない。
むしろ──期待していた。
そう。
この光景を目にした彼が、僕に嫉妬してくれやしないかと。
ほんのわずかで良い、胸にかすかな疼きを覚えてくれやしないか、と。
それは、ただの夢想だった。
恋に恋する乙女が、白馬の王子様の到来を夢見るような、他愛のない甘い夢。
その、はずだった。
しかし果たして、ミタカの夢は、本当に叶ってしまうこととなる。
彼の背中は、将軍からの射るような視線を感じた。
それはほんの一瞬の出来事で、その場にいた者で気づいた者など、誰一人としていないだろう。
だが、ミタカには視えた。
絶対零度の容赦ない敵意が、自分を突き抜け、目の前のなんの罪もない女性めがけて、まっしぐらに突き刺さるのを。
震えるほどの悦びが全身を貫いた。
あまりに強い酩酊感に、危うくその場に倒れるかとさえ思った。
腹の底からふつふつと湧き上がる幸福に眩暈を覚えつつ、ミタカは鋼鉄の意志で、かろうじて無表情を保つことに成功した。
慎重に、何も気づかぬふりをした。
嫉妬されて悦ぶ己など、決して悟られてはならない。こんな背徳の悦びは、不敬以外の何物でもない。
目の前の士官を見るともなしに眺めながら、ミタカはごめんなさいと胸のうちでつぶやく。
可哀そうに。
この者はただ、自分に想いを寄せただけ。そして、自分がその想いに「礼を尽くした」というだけ。
たったそれだけなのに。
きっと彼女は、酷い目に遭うのだろう。
本当にごめんなさい。
でも──。
ミタカは大きく息を吸う。そして言った。
「どうもありがとう」
爽やかな笑顔を浮かべさえした。
「嬉しいです」
本当に、嬉しくて堪らなかった。
彼女の不遇が。
だって、それはいわば、証なのだから。
自分が、彼の──
「おい、ミタカ。おい!」
物思いに耽っていたミタカを、主人の呼びかけが打ち破る。
「あ、は、はい!」
「何をぼうっとしてるんだ」
夢から醒めたように慌てるミタカを、主人は少し胡散臭げに眺め、それからすぐに破顔する。チョコレートをひとつ摘み上げ、彼に掲げて見せた。
「口開けろ」
「え、そんな」
「開けろと言ったら開けろ」
焦れたように駄々をこねる姿は、美しい暴君の概念がそのまま体現されたように愛らしい、とミタカの口元は綻ぶ。
きっとこのチョコレートを貰いに行けば、手を引かれてソファに引き込まれるのだろう。
来い、と誘う欲情に掠れた声をすでに聞いた気がして、ミタカはしなやかな指先に摘ままれた、焦茶色の小さな立方体をじっと見た。
天面には、林檎と蛇の絡んだ図像がプリントされている。
チョコレートは、元を辿れば媚薬だったとも聞くな。
不意にそんなことを思う。
「ほら」
あーん、とふざけた調子とは裏腹に、不思議な目の色が妖しく光ってミタカを見つめた。
ミタカは気づく。
将軍(かれ)が決める「ルール」は、いつだって破るときのためにあった、と。
口には出さず、まっすぐに主人の顔に視線を据える。じっと見返す瞳は爛爛と光り、捕食者のそれであることを隠しもしない。
ぐいと唇に押し当てられたチョコレートを、そっと舌を伸ばして迎え入れながら、ミタカはその瞳に身を委ねる。
白い指先ごと口に含めば漏れる吐息は、どちらのものだったのか。
『別れ際のキスはしない。名残惜しくなるから』
二人で決めたこのルールとて、例外ではない。
いつか必ず、破られる。
そして。
「ミタカ」
呼ばわる声は、掠れて熱っぽかった。
返事の代わりに、ミタカはただ強く主の指を吸う。
僕はそれを知っていた──最初から。
「美味いだろう?」
ほとんど囁くような、あるいは歌うような誘いの声音は、狡猾な狩猟の意図を覆い隠して耳に甘い。
舌の上で、古代の媚薬がどろりと溶けた。
「はい」
答える言葉も熱に浮かされた譫言のようにおぼろげだ。
ねえ、将軍。
欲情に潤んだ互いの瞳を覗き込みながら、ミタカは胸の内で告白する。
僕は待ち詫びていたんです。
貴方が僕を罠にかける、その時を。
「……来い。命令だ」
「御意」
主人が袖を引いたのと、ミタカが主人に倒れ込んだのの、どちらが先だったのか。
それは、二人にもわからなかった。