それでも僕は君の

「後悔してるのか」
「今もしてますよ──ちょっと、重いです、どいてください」
「嫌だ。私は重くない。よってどかない」
「私よりデカいくせに。成人男性は重いですよ、充分」
 何の前触れもなく膝の上に乗ってきた上司を、いけにも面倒げにあしらいながら、ミタカは憮然とした顔をする。
 しかし当のハックスは一向にめげない。ミタカの膝に居座ったまま、彼を覗き込むようにして顔を近づけてくる。
 鬱陶しさを前面に、ミタカがわざとらしく顔を背ける。それをハックスが追撃する。
 表情を見せまいとするミタカと、読もうとするハックスの無言の戦いは、そのまま数分間続いた。
 やがて逃げ回る部下に業を煮やしたハックスが、その顔を両手でむんずとつかまえた。そうして気の済むまで睨め回したのち、彼はごく当たり前のことを口にした。
「お前、怒ってるな」
「別に」
「怒ってる。しかも、かなり。……珍しいな」
 思案顔で顎に手を当て、しげしげと見詰める。
 至近距離から凝視され続ける居心地悪さに、ミタカはとうとう音を上げて白状した。
「……はい。怒ってます」
 両手をあげて降参のポーズを取る。
「だよな。誰に怒ってるのかは、わかっているのか?」
 ミタカをひたと見据えるハックスの顔は、いつになく真剣だった。
 その真剣さに押し負けるかのように、ミタカは渋々小さく頷く。
「……ええ」
「言ってみろ、誰にだ」
「……自分、に」
 うん、とハックスも頷いた。
「わかっているなら良いが──話すか? 話したいか?」
 問い掛けるその声は、アーミテイジ・ハックスを知る人間であれば誰もが驚いたであろうほどに優しく、穏やかだった。
 しばらく押し黙っていたミタカだったが、やがて諦めて躊躇いがちに口を開く。
「……忘れられないんです」
 その事実を告げるのは、勇気がいった。惨めでもあった。
「何をしていても、思い出してしまう。貴方の声や、表情や……その」
 肌の熱や。
 そんなものが、ふとした瞬間に甦ってしまう。ミタカはそう苦しげに告白した。
「それは、嬉しいな」
「嬉しいものですか」
 照れたように言うハックスに、ミタカは吐き捨てるように応じる。
「なんで」
「なんでって──生物なんですよ、私も、貴方も」
「うん……だから?」
 解せない、という顔をする上司に、ミタカは更に言葉を繋ぐ。
「生物ってのは、ちっちゃい粒がもやもやと寄り集まってできてる集合体でしょう。いま私のこの精神が、これは私だと思い込んで制御してる部分なんか、その膨大な集合体の一握りにすぎないんです」
「……ふむ」
 そうかもしれんが、とハックス。
「それと、私のイヤらしい姿が頭から離れない話が、どう繋がるんだ?」
 イヤらしい、という言葉にびくりと反応したミタカは、反応してしまったことを恥じるかのように顔を赤らめた。
「は、肌を合わせていれば、自分じゃコントロールできない変化があるだろうって話です。わかりませんか」
 ふうん、と言うハックスは不満そうな顔をしている。
「つまり、お前は変化が怖いのか」
「……怖いですよ」
 ハックスの問いに、ミタカの目が暗く淀む。
「今まで当然のように出来ていた事ができなくなったら? 貴方を守るためにすべての感情を廃してやっていた計算が、僕のどうでもいい感情によって狂ってしまったら? ほんの一瞬の判断の狂いが、貴方の破滅に──死に繋がったら?」
 話すうち、彼の声は次第に震え、小さくなっていく。
「……僕の執着が、貴方を壊してしまったらと思うと、怖くてたまらないんです」
 最後のつぶやきは、ほとんど聞き取れないほどに掠れていた。
 いや、震えていたのは声だけではない。良く見れば、彼の体までもが、カタカタと小刻みに震えている。
「ミタカ」
 その震えを無理やり抑えるかのように、自分の手を握りしめ、項垂れるミタカを眺めながら、ハックスはのんびりと言った。
「お前、一人称“僕”だったのか」
「──は、はい?」
 ミタカが、困惑したように顔を上げる。
「いや、常々“私”は嘘だろうなとは思ってたけど。そうか、“俺”じゃなくて“僕”か」
 初めて知ったな、とニコニコするハックスに、ミタカは絶句した。
「……あの、僕、じゃない、私の話、聞いてました……?」
「うん。聞いたぞ。──あ、じゃあ、ついでにもうひとつ聞くが」
 渾身の懺悔をスルーされて唖然とするミタカに、上司は穏やかだがまったく真意の組めない顔を向けて問い掛ける。
「お前、私のこと好きか」
「は?」
 なんだ、それ。
 ミタカはぽかんと口が開けた。
「そ、それは──どういう意味で」
 たっぷり十秒ほどフリーズした後、ミタカはやっとの思いでそれだけを言う。その答えに、ハックスがにんまりと笑った。いかにも嬉しそうな笑みだった。
「──とか訊いちゃうんだよなあ、ミタカは。かわいいなあ!」
「はあ?!」
 な、何ですかソレ、と食ってかかってきた部下をひょいと交わすと、ハックスは部下の膝から立ち上がって数歩逃げる仕草をした。キャーと黄色い声を上げ、頬に両手まで当ててみせる。
「でもな、お前のことは、私の方が良くわかってるんだ。だから下らんことで悩むな」
「ど、どういう意味ですか! 下らないって、ぼ、僕は真面目に貴方を」
 屈辱と恥ずかしさと混乱で耳まで真っ赤に染まったミタカが、たまりかねて椅子から腰を浮かした途端、ハックスはその肩を抱き止めた。
 上司の腹のあたりに頭を抱き込まれたミタカは一瞬固まり、やがて困ったようにうー、と唸り声をあげた。
「知ってる。お前が私のことだーいすきで、好きで好きで半分くらい頭おかしくなってることくらい、百も承知だ」
 子どもをあやすように、ハックスはとんとんとミタカの肩を叩く。
「そ、それなら……」
 どうしていいかわからず、腹に顔を埋めたままモゴモゴ言う部下に、ハックスは尚もあやすように言い聞かせた。
「だいたい、お前ごときの判断ミスで、私が死ぬわけないだろ」
「……それは……でも……」
「大丈夫だ。たとえお前が、悩みすぎて爆発して、肉体的にだろうが精神的にだろうが、グッチャグチャのドッロドロのミンチになっても、ぜんぶ私に回収してやるから。一片たりとも残さず、ぜーんぶ」
「……」
「だから、安心して私のことだけ考えてろ。お前のことは、私のほうが良くわかってるんだから。ちっぽけな自分のことで思い悩むな。な?」
 わかったか? と笑う主人に、ミタカの抗議の声は次第に小さくなっていく。
「それくらい出来なくて、主人が名乗れると思うか。お前は私のものなんだからな。──おい、ミタカ」
 そこでようやく抱きしめていた部下を解放し、ハックスはミタカの顔を覗き込んだ。
「あんまり私を甘く見るなよ」
「そんな、甘くなんて」
 主人の視線を受け止めきれずに戸惑ったように目を泳がせるミタカの顔からは、けれど先程の思い詰めたような影は、きれいに消え去っていた。
「それよりお前、報告書は出来てるんだろうな」
「え?」
 一転してジト目になったハックスに、ミタカはきょとんとする。
「『植民地統制における相互監視の有用性、および犯罪数の減少について』」
「あ、ああっ!」
 すっとんきょうな叫び声を上げて、ミタカはがばりと立ち上がった。
「あ、あの、あの、今日中には、必ず。今から──」
「駄目だ」
「なん──」
 で、と言い終わる前に、主人の唇がミタカのそれを素早く塞ぐ。
 んーんーと藻掻く部下が静かになるまで、ハックスはたっぷりとその唇を味わう。解放する頃には、部下の目は霞がかかったようにとろんとしていた。
 上気する肌にゾクゾクしながら、ハックスはミタカの耳許で囁く。
「……イヤらしい私を片付けるのが先だ」
「ちょ、そんな……!」
 締め切りが、と絶望の声を上げる部下を、上司は再び椅子に押し戻す。
 困ります、放してくださいという悲鳴を封じるように覆い被さると、ハックスはミタカの下腹部に触れた。案の定の状態になっていることを確認して北叟笑む。
「まあ、お前のことは私に任せろ。私のことはお前に任せたから」
「屁理屈もいい加減にしてください、通報しますよ!」
「ふふ、上の口はそう言うが、果たして下の口はどうかな……?」
「逆! 立場が逆!!」
「あーん、いちいち突っ込んでくれるミタカ大好き♡」
 なんだかんだと騒ぐ二人の声が、やがて静かな熱狂に取って代わるのに、さほど時間は掛からなかった。

(了)


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