ヒラメの棲む海

 泣きじゃくる上司の背中をなだめさすりながら、ミタカはヒラメのことを考えていた。
 幼い日に絵本で読んだ民話だ。
 海でヒラメを助けた漁師が、抜け目ない妻に言われるがまま、恩返しの報酬をつり上げ続ける。結果的にはぜんぶなくして元の木阿弥になる、典型的な因果応報の、他愛ない絵本だったはずだ。
 だが、ミタカはその絵本が苦手だった。
 漁師の妻は欲深く、衣食住が満たされると、とうとう王様になりたいと言い出す。漁師は嫌々ながらヒラメに願いを変えてくれと伝える。家に帰ると、粗末な漁師小屋は豪奢な宮殿に変わっている。
 頁を繰ると、変わり果てた二人の姿が大きな一枚絵で描かれていた。
 灰色の空と荒れ狂う海をバックに、断崖絶壁に不釣り合いにそびえたつ宮殿。その中に、貧相な男女が絢爛な王族の衣装に身を包んでいる。
 漁師の夫は背を丸め、己の罪深さに怯えるようにうなだれていた。王冠が、頭上で空しくかしいでいる。
 妻は玉座に腰掛け、深紅のベルベットで縁取られた肘掛けに頬杖をつきながら、視線をあさってのほうに放り出していた。瞳の色は荒れ狂う海や空と同じ濁った灰色で、何も見ていなかった。
 まるで自身の本性が空虚であることを暴きたてられたことに困惑しているように見え、それがミタカにはとにかく恐ろしく映った。
 たとえ元の漁師に戻ったとしても、自分が空洞であると知ってしまった事実は、もはや動かせない。
 絵本に描かれた逃れようのない絶望を嗅ぎとった幼いミタカは、そのページになる度、必死に顔を背けた。顔を背ける自分の姿が、漁師の妻のそれと似ているのではと怯えながら、それでも直視することができなかった。
 ──漁師はヒラメを助けたが、僕はとくだん何をしたわけでもないのにな。
 にも関わらず、ヒラメの恩返しとしか思えないような幸運が、今この身には降りかかっている。
 自分はそんな幸運を本当に望んでいたのだろうかと、近頃よく考える。
 どろどろと不定形な疑問が腹の底で渦巻いては、消える。
 ほんのジョークでしかない「売春しちゃおうか」という言葉を真に受けて、過剰に強い言葉で咎めた自分と、ネタにマジレスと笑い飛ばさず、素直に詰問に脅えた彼、はたして一体どちらが無垢なのだろうか。
 ここで言う無垢とは、つまりは馬鹿とほぼ同じ意味だと気付いたせいでよけいに居心地がわるくなり、ミタカはもぞもぞと身体を動かした。つられるように、甘えて泣きじゃくる男もしなだれかかってくる。
 彼の体温が、今日はどこか疎ましかった。
 彼に、「僕以外」が現れたら。
 想像の外でいつも畏れていたことは、けれど、たとえ実現したところで、今と大して変わらないのだろう。ただミタカ自身の内の渦が深くなるだけだ。
 いっそ、その方が良いのに、とさえ思う。
 ずっとこの腕の中で泣いていて欲しいと願う自分を、さほど異常だとは思わない。ただ、お伽話ではいつだって、自らの手にあまる宝を与えられた者は、身をよじってその重さから逃げ出すものだ。
 あの絵本だって、たしか「すべてを元どおりにしてくれ」とヒラメに願うことで終わったはずだ。
 そして幸せに暮らしましたとさ、という最後の一文は妙にそっけなく、子供心に嘘だと暗に匂わせているような気がした。
「ほら、もう泣かないでください」
 この猫なで声は、どこから出るのだろう。自分でも不思議に思いながら、ミタカはやさしく彼の主に囁く。
「わ、私は、お前以外となんて……無理だ……」
 可哀想に、こんなに怯えて。
「そうです。貴方は僕以外となんて、寝ることはできない」
「馬鹿なことを考えた……。浅はかだな、私は」
「大丈夫。貴方を守るために、僕がいます」
 安心して、と殊更に優しく髪を撫でる。どろどろと逆巻く渦は、荒れ狂う海よりも濃い灰色だ。
 この海には、ヒラメなんか最初からいなかった。
 不意にミタカは悟る。
 いるのは、僕たちだけだ。