本日閉店

 空は鼠色に曇っていた。
 台所の窓から眺める庭の土も、緑も、どこも雨に濡れて鮮やかだ。
 葉や屋根や窓枠を、パラパラと叩く雨音に耳をすませる。
 家の奥からは、薪のはぜるかすかに乾いた音が聞こえている。空気はじっとりと水分を含んで重い。
 苦労して手に入れた鉢植えの沈丁花は、先週ようやく咲いた。その細やかな紅色をぼんやり見つめながら、ハックスは羽織ったウールのカーディガンの前をかきあわせる。
 暖炉の火は今は弱く、雨の日には少し肌寒い。
 首まわりをカーディガンですっぽりと覆ってしまうと、かすかにミタカの匂いがして、彼は知らず知らずのうちの微笑んでいた。今朝がた「寒いから」と自分の羽織っていたのを貸してくれて、けっきょくそのまま着ている。
 火にかけていたケトルがシューシューと沸騰をはじめ、ハックスは急いで視線を窓から手元のコンロに移した。
 火を止め、用意していたガラス製のポットに並々と沸いたばかり湯を注ぐと、湯気がもうもうと立ち、かすかにだが乾燥した草と甘酸っぱい果実の香りが広がった。
「雨の日は、やっぱり暗いですね」
 不意に背後から声を掛けられ、ハックスは振り向く。
 数冊の本とレコードを抱えたミタカが立っていた。
 普段なら「節約」と言って点けない明かりだが、ミタカの言うとおり雨の日の家は少しだけ薄暗い。まるでデータパッドのディスプレイ明度を二、三度落としたようだと、ハックスはいつも思っていた。
 ミタカが、キッチンに垂れさがるランプのつまみをひねった。
 小さなオレンジ色の明かりが古びたシェードから漏れ出し、やわらかな明かりが台所を照らす。
 二人は、なんとはなしに微笑みを交わした。
「それ、新作ですか」
 ハックスの手元のポットをミタカが指さす。ポットの中の液体は、すでに透明な赤色に透きとおっていた。
「いや。このあいだ出したやつの、マイナーチェンジ」
 ああ、あれ、とつぶやいたミタカが首をかしげる。
「蜂蜜いれて飲むの、美味しかったけどなあ」
「それじゃ太るって、“試飲会”で怒られたんだよ。彼女らの注文、あれでなかなか侮れないからな」
 学校帰りに数人で押しかけては、「試飲会」と称してああだこうだとかしましく品評会を始める常連の学生たちを思い浮かべ、ミタカは苦笑した。
 たしかに彼女らが気に入ると、村でも評判になるのが早く、スマッシュヒットが出ることは多かった。その代わり、あっという間に廃れてしまうのだけれど。
 湯の満ちたポットにキルティングのカバーを被せると、ハックスはちいさな木のトレーを取り出して二人分のマグカップを乗せた。
「とは言え、甘みは欲しいからな。干したオレンジの皮を、砂糖漬けにして入れてみたんだ」
あっちで飲もうとミタカを促し、暖炉のそばに置かれたソファに向かう。
「それって……」
 同じことでは、と言いながらトレーを受け取ろうとするミタカを制し、ハックスは木製のローテーブルにそれを置いた。どっこいしょと声を出してソファに腰かける。
「いいんだよ。彼女らが気になるか、ならないか。問題はそこだ。あとはコストさえバランスが取れればな」
 ふふ、とミタカがちいさく微笑む。
「貴方、意外と商売に向いてましたね」
「お前よりはな──ところで、それ」
 隣に腰を下ろすミタカの手にあるレコードを指し、ハックスは興味津々の顔を見せた。
「ああ、これ。例の箱にあったやつです」
 例の箱とは、数週間前に二人が屋根裏で見つけた大きな行李のことだ。おそらくは前の住人の持ち物なのだろう。
 埃まみれの蓋を苦労してこじ開けてみると、大量の服や写真に混じって、日記と思しきノートやレコードも見つかったのだった。
 ミタカの持ってきたレコード・ジャケットは、印刷が褪色して文字も掠れていた。四辺は擦り切れてしまって、ちょうど歌手名とタイトルが読めなくなっている。豊かな金髪と碧い目をしたヒューマノイドの女性が、大胆に肩を露出し、悩まし気な視線を送っている写真には、どことなくノスタルジックな艶っぽさがあった。
 暖炉の脇に置かれたレコードプレイヤーを示し、ミタカはいたずらっぽい表情をしてみせた。
「せっかくだし、掛けてみようかなって。あ、あと──」
 テーブルに置いた本を持ち上げる。
「こっちは、このあいだ言ってた小説」
「図書館から借りたんだっけ」
「ええ」
 借りるときすごい顔されましたけどね、と蓄音機に黒い円盤をセットしながら、その時のことを思い出してミタカは苦笑する。
「貸出カウンターのご婦人に、穴のあくほど見つめられて閉口しました」
「自分の家で起きた惨劇をネタにした小説を借りるなんて、まあ、いい顔はされないだろう」
「でも、気になるのが人情じゃないですか?」
「ここの連中にとっても、思い出したいような話じゃないんだろうさ」
 得心がいかないといった様子のミタカに肩を竦めて見せると、ハックスはポットのカバーを外す。充分にハーブが抽出されているのを確かめてからマグカップに注ぐ。
 湯気の温かい湿り気が、おだやかなカモミールとスパイシーな生姜の香りに乗ってあたりに漂いだした。
同時に、時代がかったホーンブラスのメロディーが爆発するような大きさで流れ出し、蓄音機の針を落としたミタカは「わあっ」と叫んで耳を塞いだ。
 弾かれたようにハックスが笑う。
「もっと細い針を買わないと……」
 苦々しげな顔でソファに戻ってきたミタカは、それでもハックスのすぐ隣に腰かけるとすぐにうれしげな笑みを浮かべ、いそいそと湯気を立てるカップに手を伸ばした。
甘ったるい女性の声が、語り掛けるように歌いだす。

   あなたに愛されたいの
  あなた、ただ一人だけに
  他のだれでもない、あなただけに

「ああ、美味しい。甘い」
「……フェル。お前、もう少し上手い褒め方をだな」
 あまりにも単純なミタカの誉め言葉に、ハックスの目は細いジト目になる。
「だって、美味しいものは美味しいんですもん。それに、甘いし。ええと、それからジンジャーのスパイスも効いて、体にもよさそうというか……ベースはエルダーフラワーでしたっけ」
「カモミール!」
「おっと」
 じろりと睨まれてミタカが首を竦める。
 二人はしばし横目で見つめ合った。
 甘ったるい歌声は、あなたにだけ愛されたいの、あなただけ、と繰り返している。
 プッとハックスが吹き出した。
「……すみません、本当に」
 ミタカも笑いながら首を振る。
「どうにも、草の名前だけは……」
「草って言うなよ」
 けらけらと笑う二人の笑い声を、二人は知らない往年の大女優の歌声がやわらかく包んだ。あなたにだけ愛されたいの、あなたを私のものにしたい、それ以外の望みなんてない。
「小説、読みますか」
「お前も読みたいだろ」
「ええ。でも、お先にどうぞ」
「あ、なら読んでやる。そしたら二人で読めるだろ」
 ヒューとミタカが口笛を吹いた。
 二人してまた笑う。
 窓の外では、雨が静かに降りつづいている。
『魔女の家』と書かれた表札の下には、「本日閉店」の札。
  家の中は、暖かくて居心地が良い。
 甘い恋の歌と、物語を読み聞かせる声だけが、低く響いていた。