二月は花色の

 聖バレンタインもとっくに過ぎた二月の終わり。
 いつものように風呂から上がり、寝室のドアを開けたミタカは違和感を覚えた。
 普段ならとっくにベッドに潜り込んで本でも読んでいるはずのハックスが、何をするでもなく立ったまま窓の外を眺めている。
「何してるんです、風邪を引きますよ」
「あ、フェル」
 入ってきたミタカに気づいたハックスが振り返る。
 すでにパジャマに着替えているのに、何も羽織っていないその姿を見て、ミタカは慌てて無造作にベッドに放り出された毛玉だらけのウールのカーディガンを手に取った。
「ほら、これを着て」
 けれど、ハックスはそんなミタカを無視して、ごそごそと枕の下を探りはじめる。
「アーミテイジ」
 湯冷めしてしまいますと急かすミタカの声が少し高くなったのと同時に、彼はくるりとミタカに向き直り、
「これ、お前に」
 早口でそう言って何かを押し付けてきた。
 反射的に受け取ってしまった手の中のものに、ミタカは目を落とす。
 あかるいブルー──薄浅葱と縹(はなだ)色が入り交じったような──の、やわらかな毛糸のかたまり。ではない。
 編み目がある。
 つまり、毛糸の編み物だ。とミタカは認識する。
 幅半フィートほど、長さにいたっては6フィートを越えていそうなその編み物は、ふわふわと幾重にも折りたたまれ、細く赤い紐で束ねてあった。どこか恥じらうような雰囲気で、へにょりと蝶結びまで施してあった。
「マフラー?」
 声に出してつぶやくと、それまでずっと目の前でそわそわと両手の指を動かしていたハックスが、ぴたりとその動きを止めた。
 その目が上目づかい気味に、ずっとミタカの反応を追っているのを感じながら、ミタカはしげしげとそのマフラーを眺める。
 編み目は少し不ぞろいだ。だがこれが手編みならば、むしろ恐るべき正確さといえそうなほど揃っていると言っても過言ではない。
 当初は「入り混じった」と見えた色は、良く見れば染ムラのある毛糸を使用しているからのようだ。
 つまり、これは手の込んだハンドメイド品である可能性が高い。
 見入っていたミタカは顔を上げた。
「あの、もしかして、これって」
「初めて作ったから粗だらけなのは仕方ない。許せ。あともっと早く上げるつもりだったんだ。努力はした。けど、まさか二月も終わりまで掛かってしまうとは思わなんだ。そ、その──」
 すまない、とさらに早口になるハックスの声を聞きながら、ミタカは不意に去年のことを思い出していた。
 ハックスがいやにそわそわしながら「ウールの白い毛糸玉を買ってきてほしい」と頼んできたのが、たしか去年の夏の終わり。その頃の彼は、すでに香水や薬の調合に凝りはじめていて、だからまた妙な物を欲しがるもんだなと思いはしたが、ミタカは気にも留めなかった。ただ、十玉くらい買わされたのが、家計には結構な痛手ではあった。
 さらに秋。
 いつだったかの夕暮れ、少し早めに夕食の支度を始めようとミタカが台所に立つと、とつぜん勝手口のドアが開いた。何事かと驚くミタカの前に、ハックスが転がるように駆け込んできた。彼は両手にあふれんばかりの緑の葉を大量に抱えていた。そしてそれを差し出すなり、「この葉、食えるらしい!」と興奮ぎみに叫んだ。
 開けっぱなしのドアから西日が射し込んで、長い影を作っていた。赤毛と白い肌が赤い夕陽に照らされて、ほぼ同じ色に染まっていた。彼の髪といわず服といわず、全身が葉っぱまみれだった。
「何の葉っぱなんですか? こんなにたくさん、どうしたんです」
 陽の眩しさに目を細めながら尋ねるミタカに、
「クサギ。山菜だって。茹でて水にさらせば匂いは取れるって」
 必要最低限の言葉だけ残すと、じゃ、私はまだ用があるからなどと言いながらそそくさと退場しようとした彼を、そうはさせるかとつかまえ、いったいどこで採ってきたのか、何のためにとミタカは質問攻めにした。だが彼の答えは要領を得ず、ちょっとアレで、そこの野原から採ってきた等と曖昧に応えて口ごもる彼は、そういえば少し挙動不審だったなと今更ながらに思う。
 そこの、と言いながら曖昧に窓の外を示したハックスの指は、爪のあいだまで鮮やかな青色に染まっていた。
「あのクサギの葉、そんなに美味しくはなかったですね」
 ついそう口走る。
 ハックスは一瞬きょとんとした顔を見せ、やがて、ああ、と苦笑いした。
「食えるって聞いたから持って行ったんだが。本当に食えるだけだったな」
 苦笑しつつ、頭を振って腰に手を当てる。その仕種は、昔と寸分違わない。
「油で炒めただけっていう調理法がまずかったですかね……」
 調子を合わせるようにミタカが腕組みする。それもまた昔と同じ癖であることに、ミタカ自身は気づいていなかった。
「そうじゃないだろ。あれは味のない葉っぱだった」
「味、なかったですね……」
 その夜食卓に供された謎の塩炒め野菜を、もそもそと言葉少なに食べたなんともいえない空気を思い出し、二人は顔を見合わせて笑う。
 ミタカは静かに言った。
「あのときから、準備していて下さったんですか」
「か、勘違いするな。別にお前のためじゃない。ただ、本当に染料になるのか試してみたかっただけだ。どうせプレゼントするなら、最初からぜんぶ私の手で──あ」
 語るに落ちたことに気づいたハックスが、あわてて口に手を当てる。
「ち、違う、ええと」
「……ありがとう、ございます」
「や、そんな大したもんじゃ──って、フェル、お前」
 泣くなよう、とハックスが情けない声を上げた。マフラーを握りしめたミタカは、声もなく涙を流していた。
「よせって、泣かせるために編んだんじゃないぞ?!ここの冬は寒いから、風邪ひいてほしくなくて──」
 そこまで聞いて、ミタカはとうとう堪えられなくなったようにうわーんと声を上げる。
「う、嬉しい……です……!」
「あ、だから、泣くなってば……」
 困り果てたように頭を掻くと、やがてハックスは泣きじゃくるミタカの肩を抱き寄せた。よしよしと背中を叩くたび、ハックスの腕の中でミタカがしゃくり上げる。
「うっ……す、すみません……抑え、きれなくて……」
 うんうんと頷きながら、しばらくの間ハックスはただ黙ってミタカの背中を撫で続けた。やがて落ち着いたミタカは、鼻を啜りながらすみませんと頭をさげてハックスの胸を離れた。
「あの……これ、着けてみても、いいですか?」
 照れくさそうに顔を上げながら尋ねた彼に、ハックスは嬉しげに笑った。
「それを待ってた。はやく着けろ」
 促されるまま、ミタカはようやく赤い紐を解く。
 長いマフラーをかるく首に巻き付ける。
 あざやかな青が、顔のまわりにふわりとこぼれた。
「……あったかい」心の底からそうつぶやくと、
「似合うな」とハックスもやわらかく微笑む。
「その色、な」
 こほんと空咳をすると、唐突にハックスが真面目くさった顔をして言った。
「私の瞳の色と、似てると思わないか」
「え?」
 真意の掴めないまま問い返すミタカに、ハックスが早口で言う。
「だから──お前によく似合うんだ。と、思う」
 そして、何か訊かれるよりも先に、さあて寝るぞと言うなりさっさとベッドに入ってしまった。
 呆気に取られた顔をしていたミタカだったが、やがてくくっと笑い声を立てると、すばやくハックスの隣に滑り込む。
「アーミテイジ。今、なんて?」
「べつに何も。──電気消すぞ」
 言うが早いか消灯してぶっきらぼうに横を向いたハックスの、けれど口元には大きな消しきれない笑みが残っていた。
 真っ暗になった寝室に、二人の大きな笑い声が響く。
 笑い声はやがて小さく囁き交わすひそひそ声になり、そしてその声もいつしか、穏やかな寝息に取って代わった。