もうひとりの

 仕事を終えて退出しようとしたところで、ミタカはハックスに呼び止められた。あとで部屋に来いと言われ、あからさまに警戒した態度を取ったら「馬鹿、これをお前と観たいだけだ」と一本の映画を渡された。いったいどういう風の吹き回しだと訝しんだが、映画だけならと応じる。
 映画が始まって、すぐにその意図を理解した。
 主人公を演じている役者が、ミタカそっくりなのだ。
 まるで一卵性双生児のように似ている役者に唖然とするミタカを見て、ハックスは満足そうに笑った。

 映画が終わる頃には、ハックスはもう心なしか眠そうで、エンドロールまで生真面目に見るミタカの横でとうとう船を漕ぎ始めた。
 慌ててベッドに連れて行くと、裾を掴んで離さない。
 寝るまでは傍に居ろと言う。
 はいはい、と面倒そうなフリをしてはみたものの、遠慮会釈なく甘える男の素直さには、相好が崩れてしまった。
 34歳にもなる大の大人を撫でたりあやしたりしながら寝かしつけ、ようやく寝息が聞こえてきた頃には、上映会終了から一時間が経過していた。
 そっと立ち上がり、音をたてないように寝室を出る。後ろ手にドアを閉めるときにはもう、ミタカの心はすでに物思いに沈んでいた。
 映画は面白かった。
 いや、面白すぎた。
 よくできた脚本のせいか、外連味あふれるカメラワークのせいか、もちろん自分に似た演者のせいもあるだろう。とにかくミタカは、主人公であるベン・ジョンソンという詩人に、感情移入しすぎてしまった。
 エンドロールを眺める将軍は「字ばっかりのここをちゃんと見るお前の気が知れない」と文句を言いながら欠伸を連発していたが、ミタカは答えなかった。答えられなかったのだ。もし一言でも言葉を発したら、正体のわからない、胸の奥からせり上がる重石のような塊が、嗚咽となって外に出ていきそうで、ミタカはただひたすら、喉を奥をきつく締め、眉間に皺を寄せつづけていた。
 かつて、ハックスを庇ってひどい怪我を負ったミタカに向かって、彼の主は激怒したことがある。「貴様、私の許可なく勝手に死ぬ気か」と。
 痛みで途切れそうになる意識のなか、ベタなことを言う人だなと苦笑するミタカの目に映ったのは、激情でふるえる口調とは裏腹に今にも泣きだしそうな、なんとも情けない主人の顔だった。
 そのとき、「私が貴方を一人で死なせるわけないでしょう」と返したミタカの言葉に、嘘はない。
 だが、とミタカは項垂れる
 自分が主人を護り切り、老いて、幸福で自然な死を迎えた後、一人残された自分には、何があるのだろう。
 映画のラストシーンが嫌でも甦る。
 誰よりも認め、誰よりも敬した男にだけは、決して読んでは貰えぬ詩。その詩が称賛されたところで、ジョンソンの残りの人生にどれ程の喜びが残っていたというのだろう。
 閉ざされた寝室のドアを、ミタカはじっと見つめた。
 ふと、さっきまで袖口を握りしめていた、ハックスの手が思い出された。
 白くて細い、頼りなげな手首。
 だがその内に秘められた知力は凄まじく、意志は鋼のように硬い。
 そうか、と思う。
 たとえ、自分の人生が、焼けるような喪失の痛みに満ちたものになるとしても。
 ──あの強く美しい人に、そんな哀しみを味わわせることは、絶対にできない。
 あってはならないのだ。
 決意を新たにし、小さく拳を握りかけたミタカの耳に、突如フガッという間抜けな音が届いた。
 ドアの向こうで、主人が鼾をかき始めたらしかった。
 たまらずクスリとこぼれた笑いが、自分でも驚くほどに、心をやさしく温める。
 主の私室を後にしたときにはもう、ミタカの気持ちは晴れ晴れと冴えわたっていた。