飴と煙草

「あと……何枚くらいだ?」
「いまは4分の3程度です。その質問14回目ですよ、あとちょっとなんだから黙って──あ、こら!」
 伸びをすると見せかけて、そろそろと此方にある菓子鉢に伸びてきた上司の腕をはたき落とす。
「キャンディーはもうダメ!書き上げるまでお預けです」
 油断も隙もないんだから、とぼやきながら、カラフルなキャンディーが山と盛られた小皿を手の届かない場所まで避難させると、彼は恨みがましい上目遣いで僕をじろっと睨んだ。
「けち」
「良いから書く!」
 くわっと目をひん剥いて一喝する。途端、上司は首を竦めてあわてて作業に戻る。
 ──まったく。嫌いな事務作業は、こうやってすぐに逃げようとするんだから。
 僕は目頭を揉む。意識を切り替えて目の前の画面に集中しようとするが、どうにもうまくいかない。10分おき上司に作業の邪魔をされる苛立ちに、たまらなく煙草が吸いたくなる。
 だが、傍で監視しててすらこのザマだ。彼を一人きりなんかにしておいた日には、永遠に片付かないだろう。
 午前1時。年賀状の返事を書ききるタイムリミットは、明日──というか今日の午前8時まで。
「女優はいいよな」
 のろのろと腕を動かしながら、反抗的な上司がぼやいている。
 返事をしないでいると、もう一度同じことを言った。
「……どうしてです」
「昔なにかの映画で観たんだけど、サインじゃなくてキスなんだよな」
「……」
「口紅ひいて、ポストカードとか、色紙みたいなやつに、ぶちゅーって」
「……ああ」
 そういえば見たことがある。60年代の銀幕スターは、そんなことをやっていた。
「それでおしまい。ああ、私もあんな感じで済ませたい……サインなんかより余程簡単だ」
「どこの世界に、ファースト・オーダーの将軍からキスマーク貰って喜ぶ馬鹿がいるんです」
 思い切り冷たい声で返す。将軍はムッとして顔を上げた。
「ひとりくらいいるかもしれないだろ」
「思い当たりません」
「ひ、ひどい!え、じゃあミタカは?ミタカも私のキスマーク要らない?」
 要らん。
 と切り捨てたいのをぐっと堪える。
「……貴方は手を動かせば終わりますけど、私はそうも行かないんです。少し黙ってていただけますか」
 僕の担当は、ずらっと並んだ送付先リストの表記チェックだ。ツールでやるわけにはいかない部分、たとえばウォレス卿は称号と名字の間に半角スペース3個ないとキレるとか、そういう細かい部分の対応だ。しかもこの仕様、個人の好みなので逐一手動でアップデートするしかない。全員分を把握している人間なんて、僕くらいしかいないのだから。
 いらいらと貧乏ゆすりをする僕を、無邪気な眼差しで見ていた上司は、やがてあっさり言い放った。
「前から思ってたんだが、それ、やらなくて良くないか?」
「ハ?!」
 思いもよらないその言葉に、思わず声が高くなる。
「だってお前が苦労するばっかりだし、私が怒られておけばそれで済むなら」
「誰のためにやってると思ってるんです!他でもない貴方の為でしょうに!怒られておけばって、冗談じゃない!あんたはファーストオーダーの顔だ!私が怠けて貴方にミソつけるくらいなら、舌噛んで死んだほうがマシです!」
 いきなり爆発した僕の剣幕に、上司はぽかんと口を開けた。
「あ、そ、そう。そうか、そうだな。すまん」
 私が悪かった、ごめんなと、微塵も思っていなさそうなことを言いながら、上司は冷や汗を浮かべて後退る。しまった、またキレてしまったと思ったが、後の祭りだった。
「……とにかく、終わらせますよ」
「その前に休憩しないか」
 あんた人の話聞いてたのかよ、と再度キレそうになる僕を遮って、上司はなんだか得意そうな顔をして僕を見た。
「なんだかんだ言って、お前も煙草吸いたそうな顔してるぞ」
 貧乏ゆすりを指さす。
「うっ。──き、勤務中は吸いません」
「私は飴を舐めたい」
「いけません」
「お前が煙草吸って、私は飴を舐める。5分休憩。ウィンウィン」
「ウィンウィンしません」
「あ、でも私も煙草吸いたい」
「……」
「半分こ、するか」
「しません、ていうかできません」
「半分舐めた飴やるから、半分吸った煙草くれ」
「汚いから要りません。はい、手を動かす」
 カチリというライターの音。
 あっと顔を上げたときには既に遅かった。
 向かいの上司は懐からいつの間にか取り出した煙草をくわえ、火をつけていた。
 ふーっと満足そうに煙を吐く。香ばしい煙が漂う。顔には満面の笑み。そのままつかつかと歩み寄ってくる。
 もし顔に煙を吹きかけてきたら普通より少し強めに殴ろうと心を固めていると、彼は私の脇に屈んだ。
 よし、グーで行くぞ。
 握りしめた拳を浮かす寸前。
 ──ちゅ。
 唇になにかぬめっとした濡れた感触。同時に、苦いタールの味。
「……!」
 引き離す間もなくにゅるっと侵入してきた舌が、素早く僕の口腔をひと舐めする。そしてすぐに離れた。離れる瞬間、濡れた真っ赤な舌が目の端をよぎる。
「な、な……!」
 あまりに動揺して言葉が出てこない。頬が熱い、つまり、僕の顔は真っ赤なんだろう。
 咄嗟にぶん殴ろってやろうと振り上げた僕の腕をひょいと交わし、憎たらしい笑みを浮かべた上司はトトッと自席に駆け戻った。
「お裾分け」
 えへらと笑ってそんなことを言い、また一口、美味そうに吸う。
「……だから、そ、そんなことしてると」
「終わるさ。いくらなんでも朝8時までには──」
「する時間、なくなりますよ」
 してやられた悔しさでいっぱいになりながら、僕はとうとう焦っていた本当の目的を白状した。
「ちゃんと終わる……ん?」
 ガタンと椅子が傾く音。動揺している。ざまあ。
「え、ミタカ、いま」
「聞こえてたはずです。ま、8時ギリギリまで作業するなら、私はそれで一向にかまいませんけどね」
「……」
 返事がない。
 ちらりと様子をうかがうと、そこには先ほどとは打って変わって真剣な目つきで万年筆を走らせる上司の顔があった。そっと首を伸ばして机上のカードを見れば、カリグラフィの精度まで上がっていた。深い青インクで綴られた、端正な“アーミテイジ・ハックス”の装飾字体に、一瞬だけ見とれる。
「ミタカ。手が止まってるぞ。は、早く仕事しろ」
 顔も上げずに目の前の男が言う。声が上擦っている。
 堪えきれずに苦笑しても、文句の一つも言わない。
 ──これ、効くな。
 またひとつ、怠ける上司の操作方法が増えたなと思いながら、僕もようやく目の前のディスプレイに視線を戻した。
 そわそわする下半身のことは、極力気にしないようにしながら。

(了)


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