ふたりでタンゴを

 苦しまなかったという言葉が、残された者にはなんの救いにもならないことを、貴方はご存知でしたか。
 僕は今、知りました。
 まったく何の前触れもなく、ただ眠るように息を引き取った貴方の脈を所在なげにとりながら医師がその言葉を告げたとき、僕の心に兆したのは安堵でも、哀しみでもなく、かすかな苛立ちでした。
 慰めをもたらそうとする言葉は、むしろ偽善のように感じられたのです。
 現にいま、貴方の命が失われているというのに。
 貴方のいない世界に、平穏などあるはずもないのに。
 八つ当たりだと笑うでしょう。
 そうです。
 僕は、子供のように駄々をこねています。
 でも、貴方にそんな我儘を言ったのは、たぶんこれが初めてだと思うのです。
 だから、大目に見てください。

 ねえ、将軍。
 僕の命を差し上げますから、もう一度起きて頂けませんか。
 ──ああ、でも。
 目を覚まして私の不在を知れば、貴方はきっと激怒なさるでしょう。
 ごめんなさい。
 けれど、貴方を怒らせてでも。
 貴方を独りの寂しさに晒しても、僕は貴方には生きていてほしいと思ってしまいました。
 たった一度の、最初で最後の僕の我儘も聞かずに、僕を置いていってしまうなんてあんまりじゃないですか。
 今日くらい、身勝手はやめてください。
 僕の言うことを聞いて。貴方のことで、僕の判断が間違っていたことが一度だってありますか。
 お願いです。
 お願いだから。
 将軍。

 ミタカの頬を、ひとすじの涙が伝う。
「ハックス将軍」
 声にならない声で、ミタカがようやくその名を呼んだときだった。
 目の前の死んだ主人が、当たり前のように身を起こした。
 ミタカは、驚きもせず、不思議な気持ちでそれを眺めていた。
 朝起きるときと寸分たがわず、彼は少し眉をしかめ、うん、と唸りながら瞼を開く。
 ぱちりと音がしそうなほどに長い睫毛の向こうに、ミタカがいつも心ひそかに見惚れている瞳が現れる。青とも緑ともつかない不思議な色は、銀河じゅうの光を集めたって再現できないくらい美しい、とミタカは思う。
 その瞳が、きろりと動いてミタカを見た。
「泣くな、弱虫」
 低く掠れた声が言った。
「私は、お前を置いて死んだりしない」
 そうか、と思った。そのとおりだ。
 宇宙は、世界の法則は、僕よりこの人を生かすに決まっていたんだ。僕の願いは叶えられた。
 ああ、ありがとう。これで安心して僕は──
 ミタカが満足げに目を閉じかける。と、起き上がったばかりの死人が、呆れたように呼び掛けた。
「こら。ミタカ。しっかりしろ。お前も死なないぞ」
 ついでに手を伸ばして、ぺちぺちとミタカの頬をはたく。
「え」
 漸く出た自分の声に、ミタカは少しだけ驚く。
 閉じかけた目をむりやり開けると、主人の顔が間近に迫っていた。
 彼の主人は、真剣なまなざしでミタカに問いかける。
「お前、私がそんなに身勝手だと思っていたのか」
 異常事態だと理性は認識しつつ、まったくの平静を保つ自分を当たり前のように受け止め、ミタカはふと、これは夢なんだな、と気づいた。
「僕は、いえ、私は……貴方を看取るまでが、己の務めだと……」
「馬鹿だなあ」
 やっとそれだけを言った従者の言葉に、主人は朗らかに笑った。
「私のいない世界に、お前が耐えられるわけないだろう」
 なあ、いいか、と言いながら、彼の主人は人差し指でとんとんとミタカの鼻を叩いた。親しみのこもった、温かい仕種だった。
「お前の存在は、丸ごと私が背負っているんだぞ。もしお前を泣かせたら、少しでも不幸にしたら、それは私の度量がないことの証になる」
「そ、そんな──」
「そういうものなんだ、主従ってのは。だから、安心しろ」
 よしよし、と主人はミタカの頭を撫でた。そんなことをされたのは、初めてだった。
「お前の面倒は、最期まで私が見る」
 目の奥がどろりと溶けるように柔らかくなる。それが安堵だと気づいたときには、ミタカはぼろぼろと大粒の涙を零していた。
「め、めちゃくちゃです。そもそも、私のいない貴方が、きちんと生活できるとは思いません──」
「できないだろうな」
 あっさりと主人は認めた。
「うん。間違いなくできない。だからまあ、なるべく長生きしろ」
 それにさあ、と急に砕けた調子になると、主人はミタカの額に自分の額をこつんと当てた。
「どっちも爺になってボケちまえば、幻覚の相手とともに、一生一緒にいられるかもしれないもんな」
「ボケた貴方のお世話なんて、私、イヤです」
「反抗的な奴だな。再教育しないとダメか」
「お断りします。私はそれなりに有能ですよ。下手な再教育されたら、木偶の坊になりかねない」
せいいっぱい強がってみせると、怒るでもなく、そうかあ、と主人は満足げにうなずいた。
「ミタカ。お前は、どこまで行っても、何があろうと私のものだ。忘れたら罰ゲームだからな」
「……はい」

「……と、そこで目が覚めた、と」
「ええ」
「感動的だな」
「……ええ」
「なのに、こんなことされちゃって」
「……」
「寝覚めが悪かっただろうな」
 正直すまんかった、と言うハックスは、しかしいまだにミタカに跨ったままだ。
「とりあえず下りて頂けないでしょう。僕の上から」
「怒った?」
「……」
「それとも、気持ち良かった?」
「……」
「ねえ。ねえってば」
「……す」
「え?」
 聞こえにくいミタカの返答をハックスが聞き返した瞬間、ミタカは大声を出して勢いよく起き上がった。
「両方です、って言ったんですよ! さっさと降りろ、このセクハラ上司!」
 ハックスが、キャーと嬉しそうに悲鳴をあげながらミタカの上から床に転がり落ちる。
「もう下りたもーん」
「もーん、じゃないんですよ! あんた、は、恥ずかしくないんですか。部下に、こんな、夜這い、じゃない、朝這いかけて、その、ぼ、ぼくの……ぼくの……」
 そこまで言って、ミタカはわあっと顔を覆う。
 ハックスは困ったように頭を掻いた。
「だってさあ、なんか横で音がして、目が覚めて。そしたらお前、寝言で泣いてて。可哀そうでさあ……」
「だったら、普通に起こしてくださいよ!」
「でも泣いてるのに、朝勃ちは普通にしてて、面白かったんだもん……」
「ひどいです! あんまりです!」
「すまん。けど、凄い量出たから今日は一日調子よく──」
「黙れ! 聞いたこともない性病に罹ってしまえ!!」
「ひ、ひどい! あと、それだとお前も道連れだぞ?!」
 いつもどおりの平穏な朝。
 怒り狂うミタカの顔は、それでも少しだけ、安堵で輪郭がゆるんでいた。

(了)


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