いつか夢で

 屋根裏の長持ちに詰め込まれていた古いレコードのコレクションは、相当な数にのぼった。
 けれどいかんせん年代物のせいで、ジャケットが磨耗しているものも多く、大部分はいったいどんな音楽なのか見当もつかない有様だ。
 そこで、ハックスとミタカは一念発起する。
 一日一枚、夕食のあとに中身をあらためることにしたのだ。

 その夜ミタカが持ってきたレコードも、ご多分に漏れずジャケットはセピア色に褪色していた。おそらくオレンジと白のデザインだったらしいということ以外、ほとんど何も読み取れない。
 昨日掛けたレコードは、謎のノイズ音しか鳴らないシロモノだった。傷んでいるのかとがっかりして針を外そうとした瞬間、突如幽霊のようなか細い女声のコーラスが入り、二人はおおいに肝を潰した。
 そのせいか今日はふたりとも、どことなく警戒していた。
 緊張気味に、ミタカがゆっくりと蓄音機の針を落とす。
 固唾を飲んで見守るなか、数秒間ブツブツとノイズが鳴り、やがて伸びやかでやさしい女性の声が、のどかなワルツを歌い始めた。
 古いアニメーション映画の主題歌だった。
 もともとは有名なクラシックの楽曲をアレンジし、歌詞をつけたものだ。お姫さまが森の中、この曲を口ずさみながら裸足で踊るシーンは、当時一世を風靡した。
 だがそれは、二人が生まれるずっと前のことだ。
「ああ、よかった」
「普通の歌だ」
 口々に安堵のため息を漏らす。
 ほっと胸をなで下ろしてノイズまじりの柔らかな歌声に耳を傾けていた二人は、やがてそれが聞き覚えのあるメロディであることに気がつき、顔を見合わせた。

「壮観だな」
 大ホールを眺めながらハックスがつぶやくと、傍らにひかえていた教官長は身を縮こまらせた。
「申し開きの余地もございません……」
「いったい何を申し開く必要があるというのだね?」
 返すハックスの声は冷たい。
「こんな事態になるとは、誰も予想できなかったはずだ」
 誰も、の部分を必要以上に強調しながら、ハックスはにっこり微笑んでみせる。苛立ちを顔に出さぬよう、しかし、嫌味だけは最大限にこめて。
「さすがはファースト・オーダーの精鋭ぞろいだ。これだけ多くの諜報員がいながら、誰ひとりとして社交の教養を身につけていない。それどころか、その必要性すら予測しなかったのだからな」
 享楽にうつつを抜かさず、日々任務に邁進している何よりの証拠じゃないかと高笑いするハックスに、教官長は何も答えられずひたすらに恐縮する。今にも気絶しそうな表情は冷や汗まみれで、しきりに首に手をやっていた。もしかしたら、文字どおり首を刎ねられる可能性を恐れていたのかもしれない。
 ふだんは主にトルーパーたちの仮想訓練場となっている大ホールだが、今は情報部のオフィサー諜報員たちで溢れかえっている。
 みな一様に、額に汗を浮かべていた。
 彼らがいま必死になって訓練しているもの──それは、社交ダンスだった。
 富裕層の社交界にスパイとして潜み、情報を奪取せよ。
 そんな任務を下した結果が、これだ。
 ハックスは眉間の皺を揉む。
「アカデミーでは、教養科目でダンスをひととおり叩き込んでいると聞いていたのだがな」
「それは、その」
「答えなくていい。形骸化しているのだろう」
「いえ、決してそういう訳では!ただ、なんと申しますか、実践に向けた授業としては不充分だったと言うか、これまで実践の機会が」
「もういい、下がれ!」
 くだくだしく言い訳する教官長の目の前で、ひとりの男性オフィサーがバランスを崩した。彼がパートナーを巻き込んで盛大に転けるのを目撃し、ハックスはとうとう不機嫌もあらわに怒鳴る。
 教官長はキャッと悲鳴をあげると、一目散に逃げていった。
 転けたオフィサーは慌てて体勢を立て直し、パートナーを必死に助け起こそうとしてまた転ぶ。
 悪夢のようなコントから目を逸らし、隣の二人組に目を移す。彼らはどうにか踊れてはいたが、不恰好な体幹はてんでなっていなかった。ダンスの基礎の「き」さえ出来ていないのは明らかだ。
 目の前の彼らだけではない。
 だだっ広いホールにみっしり詰まった諜報員たちのほとんどが、ヨタヨタと老いたロバのような立ち回りで、それぞれのパートナーにしがみつくか、ぶん回すかしているのだ。
 男も女も、リードもフォローもあったものではない。
 こんなもん、一日かそこらの特訓でどうにかなるわけないだろう!
 額に手を当て惨状を見ないようにしながら、ハックスは内心でわめき散らした。ハックス自身はダンスが上手いのが、歯がゆさに拍車を掛ける。どこに目を遣っても苛立ちばかりが募り、もう視察なぞやめて部屋に逃げ帰りたいと切実に思い始めたところで、ハックスの足がふと止まる。
「ん? あれは……」
 遠く、よちよちダンスもどきの一群の端っこに、誰よりも可愛がって信頼している部下の姿を認め、ハックスは目を細めた。
 ミタカだった。
 彼もまた悪戦苦闘といったふぜいで、覚束ないステップを懸命に踏んでいる。その姿はぎこちなくはあったが、他の者よりはいくぶんマシに──少なくともハックスにはそう──見えた。
 急に何かを思いついたように、ハックスは向きを変える。
 そして、オフィサーたちを掻き分け、ミタカに近寄って行った。

「痛っ」
「うわあ、ごめんなさい!」
「いえ、こちらこそ」
 相手の女性の足を踏んづけ、ミタカは大汗をかきながら謝った。
 これでもう何度目かもわからない。リードするどころか、焦れば焦るほど自分の足運びさえも思うようにならず、ミタカはすでに絶望していた。
 いいんですよと相手は笑ってくれているが、このままでは張り倒されるのも時間の問題である。
 アカデミーでも、ダンスだけは本当に苦手だった。けれど授業に割り当てられた時間数は少なく、だから苦手を克服する前に授業もテストも終わってしまったし、それが救いだった。少なくとも当時は、救いだと思っていた。
 そうやって適当に誤魔化したのが良くなかったのだ。
 ミタカは項垂れる。
 今さらこんな形でツケを払うことになるなんて、情報部に所属する者として心構えが甘かった。ああ、僕はなんてダメな奴なんだ。
 後から後から湧き上がる自責の念に押しつぶされそうになっているミタカの耳元で、不意に声がした。
「ぜんぜんダメだな」
「へっ?!」
「ダメダメだ」
 ぎょっとして振り返る。
 そこには、あろうことかミタカが最も尊敬し、もはや崇めてさえいる上司──ハックス将軍がいた。
「しょ、将軍!」
 ミタカの悲鳴に、周囲の動きが一斉に止まる。やがて、ざわざわという囁きがさざ波のように広がっていき、場はかるくパニック状態になった。
 けれども当のハックスはそんなこと意に介した様子もなく、腕を組み、顎に手を当てて思案顔をしたままだ。
 な、なんで将軍がここに?!
 己の醜態をいちばん晒したくない相手の登場に、ミタカは泡を吹いて倒れかける。が、それよりも素早く、ハックスがミタカをパートナーから奪い取った。
 周囲のざわめきが一層大きくなる。
 何が起きているか把握できないまま、ミタカは気づけばハックスと対面してホールドの姿勢を取らされていた。しかも、女性側──フォローするポジションで。
「いいか。いちばん大切なのは姿勢だ」
 ハックスが言いながらミタカの腕の位置を固定する。
「付きすぎす、離れすぎず」
 思わずハックスの肘を掴んだミタカの右手を、ハックスはやんわり緩めた。
「相手にしがみつかない。卵を保つくらいの気持ちで」
「たまご……」
「まずは、リードされる相手の気持ちを味わってみろ。いいな?」
「はい」
 自分より少し高い位置にある上司の顔を呆けたように見上げながら、ミタカは素直に頷いた。頷いてから、ようやく事の異常さを悟る。
「今の姿勢を保つことに、意識を集中しろ──音楽!」
 ハックスの鋭い一声に、機材近くにいたオフィサーが弾かれたようにスイッチをオンにするのが、間近にある上司の顔越しに見えた。
 フロアに華やかな管弦が流れ出す。
 有名なバレエから、そのものズバリの「ワルツ」だ。
「踊れる者は踊りたまえ。そうでない者は、我々を見て学べ」
 よく通る声がそう告げるのを、ミタカはどこか遠くで聞いていた。
 自分の体が、滑るように動き出した。
 特別に密着しているわけでも、ましてや引っ張られたり押されたりしているわけでもないのに、次に動く方向がわかった。
 ろくに覚えていなかったはずのステップも、難なく踏める。
 ちいさな声で1、2、3とハックスがカウントしているのが聞こえる。
 いったいどうなっているんだと上司を見上げると、彼は驚くほど真剣な眼差しでミタカを見ていた。美しい瞳の色に思わず引き込まれる。途端、
「姿勢!」
 厳しい声が飛ぶ。
 慌てて気を引き締めて崩れてきた姿勢を立て直すと、その目が優しく微笑んだ。
「そうだ。上手いじゃないか」
 ミタカは何も言えない。
 いつの間にか、周囲の景色は消し飛んで見えなくなっていた。
 聞こえるのは、華麗なワルツと、上司の低いカウントの声だけ。
「つかず、離れず。相手に触れて、むりやり動かすのではない。自分の重心を移動させることで、相手の動きを促す」
 言いながら、二人はくるりとターンする。
「そして、受け止める」
 すこし浮き足だったミタカのステップが床に着くのを待ってから、ハックスも踵を降ろす。
「リードとフォローは、衣服と肌だ」
 ハックスの言葉は、まるで頭の中に直接響いて来るかのようだ。
「互いの動きを、重心を、体全体で把握しあう。相手を熟知し、二人で一人となる」
「二人で、一人」
 翠碧の瞳に魅入られたまま鸚鵡返しするミタカに、ハックスが頷く。
「できるだろう?」
 ──お前と、私なら。
 唇を動かさずにそう告げられ、ミタカは目を見開いた。
 意識の流れを断ち切るように、ハックスが動きのスピードを落とした。ゆるやかに空気の動きが停滞し、回転が収束する。ミタカも足を止める。周囲を取り巻く光と音の奔流が、あっという間に同僚たちの黒い制服姿へと形を取り戻していく。
 ダンスが終わったのだ。
 ミタカははっと我に返る。
 音楽は、いつの間にか止んでいた。
 一瞬の静寂。
 のち、ホール全体が沸き返るような拍手に包まれるのと同時に、ミタカは大きく息をついた。
 夢から醒めたような心地で上司のほうを見ると、彼はもう、ミタカを見てはいなかった。
 ただ、添えられた腕が静かに離れてゆく刹那、ほんの一瞬だけ、労うようにミタカの腕をぎゅっと掴み、やさしく撫でていった。
 聴衆の熱狂に眉ひとつ動かさず歩み去る上司の背中を、ミタカは息を弾ませたまま、ぼんやり見送った。

 
「結局、あの後もお前はダメダメだったな」
 ハックスがぼそりと言い、ミタカは追憶から醒める。
 彼の言うとおりだった。
 将軍捨て身のレッスンを受けたにもかかわらず、結局その日、ミタカはパートナーの足を踏み続け、ハックスは顔を覆う羽目になった。
 相手の女性の期待に満ちた視線が、徐々に刺々しくなっていく居心地の悪さを思いだし、ミタカは顔をしかめる。
「努力はしたんです」
「責めてるわけじゃない」
 古ぼけた蓄音機から流れる、アレンジされたワルツ・ソングに合わせて体を揺らしながら、ハックスは笑う。
「相手が私だからこそ、お前はあんなふうに動けたんだもんな。違うか?」
「へえ」
 したり顔で言ってのけたハックスを、ミタカは目をすがめて見遣った。
「言ってくれますね、アーミテイジ」
 そして、ハックスにつかつかと歩み寄ると、無造作にワルツのポジションを取った。
 その立ち位置が当時とは反対の役割であることに気づき、ハックスが面白がるような表情を浮かべる。
「お? リードしてくれるのか?」
 お手並み拝見、と余裕の恋人の手を取り、ミタカはニヤリと笑う。
 ハックスの腕を軽く自分のそれに乗せ、姿勢をまっすぐに伸ばす。
 リズムに乗り、自然に、押し出すように重心を踵から爪先へと動かす。
 ハックスが驚きの声をあげた。
「フェル、お前」
 ミタカの足は、滑らかにステップを踏み出した。
 その動きは、自然で迷いがなかった。
「たしかに、あのときは下手くそでした。けど──」
 流れるようなナチュラルターン。
「──僕も、諜報員の端くれです」
 そして、軽やかなアウトサイド・スピン。
 ハックスが目を丸くする。
「練習したのか」
「猛特訓を」
 当時とは比べものにならない美しいステップで、ミタカは自分より少し背の高いハックスを難なくリードしていく。すました顔でくるりとハックスを回して見せ、ハックスは驚きの笑い声を上げた。
「でもね」
「私以上の相手は見つからなかった」
 だろ? とウィンクをするハックスに、ミタカは苦笑して渋々頷く。
 あの日の指導を境に、ミタカのダンスの腕はめきめき上達していった。
 けれど、あの日の夢見心地の一体感は、その後も決して得られることはなかった。
 ──リードとフォローは、衣服と肌だ。
 不意に、ハックスの声が耳に甦る。
 顔を上げると、優しげな翠碧の眼差しとぶつかった。
「二人で、一人」
 ミタカは口走る。
 その目は、魔法にでもかかったように一心にハックスの瞳を見つめている。
「そのとおり」
 ハックスが微笑む。
 二人で、一人。
 唇を動かさずに言う。
 やがて踊るふたつの影は、ひとつに重なった。

 But if I know you
 I know what you’ll do
 You’ll love me at once
 the way you did once upon a dream

(了)

ちっちゃなオマケはこちら


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